知能を高める

 知能とは何でしょうか。子供の時にいた、頭いいやつを思い出してください、たいてい、いやでしょうけど。とても物事をよく知っていたり、細かくものを書いたり作ったり演奏したりしていませんでしたか。ボールを投げたら毎回打ち返せるし、旋律に対してキレッキレの動きを、音が鳴る前から暗記していたかのように乗りに乗って、推しに推されていませんでしょうか。そうです、物事はなんでもそう単純に存在していませんので、その細かさ、繊細さ、多様さを、より詳しく識別し、比較検討総合することで、分け隔てなく知っている人が、知能が高いのだと思います。

 それでは、知能を高める方法はあるでしょうか。子供の頃に、そのいやな頭いいやつに、教えを乞うたことはあるでしょうか。自尊心が許さない場合は、その人の生活や習慣をじっと観察したりしませんでしたか。じっくり見つめるのが恥ずかしい人は、スマホでこそこそ検索してその人のアカウントを匿名で見たりしていないでしょうか。いいと思います。公開しない意思もなく公開しているのですから、見てみましょう。おそらく、家族環境や出会った人やモノ、行った場所や買ったものに対し、感想が添えられていると思います。あるいは、読んだ本や学んだこと、考えたアイデアを、わくわくうつうつ書き連ねているかと思います。どうでしょう、頭いいやつの投稿、あなたは面白いと思ってますよね。

 では、どうしてそれをあなたは面白いと思うのでしょうか。きっと、あなたの知らない世界やもの、人、場所、考え方が、そこにふんだんにあるからではないでしょうか。では、どうしてその人は、そのような投稿を作れて、これを続けられているのでしょうか。秘密は単純です。自分と違うものに常に触れているからです。自分と大きく異なるものごとを、いつも触れたい考えつきたい探し求めたいといつも心に念じて隠し持っているから、その人はより多くの多様性をより詳しく識別し、アカウントにまとめて投稿することで、ものすごく面白いアカウントに見せているわけです。

 では、どうしたらそんなに自分とは違うものごとを知りたいといつも思えるのでしょうか。ここからは、わたしの経験談になります。というのは、わたしも、いつも自分と違うものを知りたいと思って生きているからです。なので、その経験から、コツを言うことができましょう。ひとつは、濁らないようにしてきた、というのがあります。つまり、混濁、混迷、愚昧、曖昧なものごとに遭遇したら、そのままにしておかずに、それをはっきりさせようと、いつも気を付けてきました。もちろん、完全にはっきりさせることや、誰にとってもはっきりわかるまで明らかにすることは簡単ではないのですが、ある程度はっきりすると、かかっていた靄が晴れたように、次への見通しが得られ、前へ進めるのです。もちろん、靄に遭遇したことも重要なのですが、未知の靄であるほど明らかにするために多くの知識が必要になるので、やりがいがありました。というのは、その靄が濃いほど、ひょっとするとその時代に、まだ誰もはっきりさせようと思っていない明かし方が見つかるかもしれませんし、そもそもそのような靄であったことを最初に見つけた人であるかもしれないのです。それは面白いことでありましょうし、本当に見つけたり、いくらかでも明らかにできたら、その人のアカウントにフォロワーは日に日に増すでしょう。同じような靄を抱えた人から投げ銭だっていただけるでしょう。

 ふたつには、純粋な心根です。いくらかでも自分で明らかにできたなら、自分の心も晴れるので、自分で自分を純粋化できるようになります。これには、初期値はあると思います。生まれ持ったものです。もし、両親が純粋に出会い愛し結婚して産まれたのなら、生まれた時から、周りの物事を純粋新鮮にとらえ、そのまま素直に多様さを複製記憶できるでしょうし、人によっては操作創作もできるでしょう。要するに、知能とは混沌を明澄化する能力なので、透明、静謐、明確化、確実化、真理への愛に、現れます。それは、おそらく本質的には、大人が意図して作為的に与えられるものでない。大人にできるのは、おそらく、靄を与えることです。混沌を与えることです。そうでなくては、靄や混沌が存在しうることさえ、学べないでしょう。不幸な家庭に産まれた子供は、苦労するとは思いますが、初期値の靄が厚く濃いために、それが晴れていった時の制作物は大変な感銘を与えるものとなるでしょう。同時代の誰もが難問としていた発見であるなら、世界の多様性を莫大に見せる解答として、長く語り継がれるでしょう。要するに、素直な心、純粋な愛、そんな両親に知能の高い子供は生まれると思われがちですが、そうとも限らず、不幸な両親のもと、厳しい生活を強いられた子供もまた、大きな知能に恵まれることが非常にしばしばあります。いずれにしろ、それゆえにその子は社会で苦労して大きくなるのだと思います。

 さいご3つめは、人の道です。自分の道の入口は親です。親から生まれたのですから、自分らしい人生の入口は自分の両親です。そして、入口からは自由です。これは大事な認識です。入口に立つと、先が見えるような気がするものですが、その道はその入口を立てた人の影響が大きいからそう見えるだけのものです。要するに、親の人生です。親が与えたのは入口だけなはずですので、入門したあとの道は本当は自由なのです。入口にも立たん人は、自分の道も歩めません。当たり前です。自分の生きる道の入口も見つけられないような奴には、多様な世界の中のなんだって見つかるはずもないのです。自分の道にさえいないのですから。

(2025/1/3)