肚落ちの語録

 論理って、特にはじめは抽象的だと感じられるものです。たとえば、はじめて接する哲学の命題なんか、読んでいても、これはなにを指しているのか、なにを言わんとしてこんな言い回しにしたのか、なんて考えこんでしまうものです。特に、人が考えに考えた末の結論的言葉なんて、そう簡単にわかるものではありません。そこで、頭や紙に書きつけ、文字でも心に銘みつけ、じっくりと考えていくのです。

 頭で捏ね繰り回せる時期は、たのしいものです。わかってくるとなんでも考えられるし、なんでも書いて表せるような気になりますから、論理ってすげえ、言葉の力だ、論理があれば世界じゅうの誰とでも意思疎通できるかもしれない、などと有頂天になるころには、鼻柱が天にも届かんとしているものです。

 しかし、それが圧し折られることが起こります。まったく違う考え方で生活している人と、次第に多く出会うことになるからです。それは大学や研究所にいるとも限りません。地域や身近な家族、子供つながりで知り合った人の会話を聞くたびに、人間ってどうやって生きてきたんだ、と問い直していくなかで、ああ、頭で捻ってもそこまで深く意思疎通なんてできもしないんだ、という真理がわかるようになるのです。

 次第に、師匠となる人物と出会い、教えを受けるなかで考察を深めていると、師匠がその考え方で長らく生きてきた事実に感動的学習が進みます。そうして、今まで頭で展開していただけの論理が、今度は自分自身の身の中で、次々に融けて身につき、血や肉や心の主成分となって「わたし」が醸成的に燻されていくのです。

 そうなれば、わたしが論理的に構成されたわけですから、わたしはわたしとして振舞って生きて生き生きしていられ、また、人に対しても気持ちよく清々しく相対することができ、必要があれば教えたり策を考えてあげたり、また教えを受けたり諭しをいただいて反省内省できたりするのです。つまりわたしが論理的に生成変化していけるようになっているのです。

 論理って、機械的というよりも、分子細胞レベルで己を統御する役割を意味するのです。身体も精神も分子ないし細胞で構成投影されてできていますから、物質現象に規則がある以上、それらには論理で統御できる性質があるのです。神経回路上内の事象も現象ですから、考えること自体が分子細胞を統御する現象であるわけです。したがって、論理がすでに見えなくなって溶けており、身体細胞を液や養分同様に巡り流れていることが、論理的思考の達成点かつ終着点であり、お分かりのように、その人本人を自由にするのです。

 こうしたわけで、真理は人を自由にするのだと思います。結局、言葉も食べ物ですから、その筋である論理は、消化できなければ繊維として排出されてしまうだけです。消化するまで考え、効率的に反応できる酵素を発案改良し、自分のものとして同化するまで、言葉と格闘するのです。

 わたしの師匠は、おそらくこうした経験から、バッハのプレリュードの最初の4小節だけで、音楽の基本のほとんどすべてをあますところなく解説し、「これだけで、こんなに学べる」という名言をわたしに呉れました。母のため貧しい時代を勉学に費やした方だったので、この名言によってわたしの語録アプリはますます充実していき、肚落ちした言葉は消していっているのですが、この言葉はきっと生涯の最後まで残ると思います。

 ゆえに、肚落ちしておくことは重要ですし、肚落ちせずずっと気になり考え続けていくことは、いつか肚落ちするまで掴んで身近に置き続ける限り、もっと豊かで重要な意味を持つのだと思います。

(2024/12/27)