翻訳者は、原著者の為したこと、やってきたこと考えたことを中心に、その人本人を心から理解しなくてはならないわけですが、必ずそうしなくてはならないと述べるのも酷なものです。というのも、もしその原著者が多彩すぎてよくいる人間から懸け離れているように見えたり、何を考えているか少しもつかみどころのないように思える人である場合、翻訳者自身がその原著者に近い言動や生涯を送れない限り、完全に趣意を汲んだ訳はできないだろうからです。それで、その才人の言葉が誰にも意味が判然としないまま広まり伝えられている例が、学説論争においていまだに多くみられるのです。
わたしは格好の例を見つけてしまいました。
パスカル「パンセ」244頁、訳したのが前田氏か由木氏かは定かではありませんが、両氏の目が入っているのでありましょうから、これ以上問わないこととします。
真の証明が存在するということはありうる。だが、それは確実ではない。
だから、これは、すべて確実であるというのは確実ではないということを示すものに他ならない。懐疑論の栄光のために
わたしは、この訳文を読んで、少なくとも3つの意味にとれると思いました。
- 真に正しい証明は存在しうるが、その内容は常に確実ではない。ゆえに、人間の理性は常に確実な証明を書き下せない。人は神のもとでは、常にどの命題も疑えるからである。
- 真に正しい証明は存在するが、確実にその証明を誰でも成せるとは限らない。その証明を成せる人間が、常に確実な誰かとわかることはないし、誰かが必ず現れるとも言えない。疑うことこそ、神のもとで続いていくべきだからである。
- 真に正しい証明は存在する、ということは確実なことではない。ゆえに、真に正しい証明とは、すべてが確実だということが確実なことでない、と示す形式をもつものに他ならない。神のもとでは、人間にすべてが確実であると示せるはずがないのだから。
おそらく、他の解釈にもとれますが、列挙ではきりがないとここではします。それで、わたしは原文にあたってみましたが、フランス語を原文で読むには辞書を保存先からとってくることが必要なので、差し当たって英語の訳文をあたってみました。著作権の心配がいらない、The Project Gutenbergから引用します。
[It may be that there are true demonstrations; but this is not certain. Thus, this proves nothing else but that it is not certain that all is uncertain, to the glory of scepticism.]
わたしは、1文目では、やはりまずセミコロンに注目します。「という命題は」、という意味に読みとりました。というわけで、
正しい証明は存在しうる、という命題は、確実なことではない。
という意味にわたしは取ります。よって、上記1の解釈は、正しい命題は存在する場合があると考えられているのだから誤謬であるし、2の解釈では、人について書いてはいないので読み過ぎであります。従って、この中では3が妥当と思われますし、その後の意味も妥当であると思います。
そして改めて、前田由木訳の訳文に戻ろうと思います。
真の証明が存在するということはありうる。だが、それは確実ではない。
だから、これは、すべて確実であるというのは確実ではないということを示すものに他ならない。懐疑論の栄光のために
わたしが経験上知っているのは、訳者自身でもよく意味がとりきれない箇所は、原文忠実に訳す、という原則に従うべきという思想です。意味がとりきれないのに自分の解釈を出してしまうと、単に間違いになるばかりでなく、原著者の考えを歪曲してしまい、後世の読者にも、知的な煩雑さを強いてしまい失礼であるからです。ただ、わたしには、「だが、それは確実ではない。」の「それ」とは何なのか、が問題になっていたために、解釈を3つも考えてしまいましたし、その後に続く「だから、これは、」の「これ」が何なのかも定まらなかった。不明瞭な点は、1つなら文脈で判然とすることは多いですが、2つがしかも続いている時は、意味が脱線し、無知に由来するものだろうかと訝しむより前に、不明瞭な訳に留め置かれたことが、何か全体における秘密の隠匿という趣旨による意図的なものであるようにさえ感じられてしまうのです。
しかし、わたし自身の経験から、古典的な文章ではっきり述べられているもので曖昧に置かれている文章はそう滅多にないことを、読書経験から知っています。「語られることは明らかに語られうるのであり、語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない」。おそらく、パスカルはパンセのどこかに、ルイ14世に対する失望ないし軽蔑を込めた章句を挟んでいるはずですが、まだわたしは見つけられていません。王に対する率直な気持ちなのだから、そう簡単に見つからないようにしていると思われます。これは、哲学探究においてウィトゲンシュタインがヒトラーに対してその画家的資質に根本から疑義を呈す章句を、執筆中断行為をもってまで残しているのですが、ヒトラーの人間的過失と欠落、犯した甚大な罪への憐れみまで、その論理的文章にこめているとまでは、まだ読みとれていません。このような読みは、単にわたしが歴史的著作に対して期待するものであるだけかも知れず、ここでその深読みを呈示するのはいささか恥ずかしい思いもありますが、そこまで読めているからこそ可能な訳文というのはあると思うのです。わたしは次のように訳してみました。
[It may be that there are true demonstrations; but this is not certain. Thus, this proves nothing else but that it is not certain that all is uncertain, to the glory of scepticism.]
正しい証明は存在しうる、という命題は確実なものでない。つまり、すべてが不確実だ、ということが確実なことでない、ということも証明する。疑うことで、すべては確実になりうるからである。
ここから、パスカルがデカルトを危ういと考えていた点は、明晰判断そのものをも疑えるだけの神への信仰が、デカルトにあるか疑わしい、というパスカルのデカルトに対する憐れみの思いであったろうと思うのです。
このように、訳文によって、原著者の思考どころか、原著者が他の著者をどう読みどう思っていたかも、わたしたちの読みはたやすく変わってしまうのです。そして、そのような読みの真意を汲むには、原著者の残したメモから、原著者を「人」として深く研究しなくてはならないのです。わたしの尊慕敬愛する日本のある数学者は、フィッシャーは一体何を計算していたのか、膨大な計算遺稿を研究することから始め、確率分布の曲率を計算していたことがわかったところから、偉大な独創を打ち立てました。やり残した仕事を見つけて、そこから続く真理を探り出す、というのは学問の常套です。やったのに発表しなかったところには、真理が含まれているのに、まだ隠れたままになっている、その糸口が現れているからです。
(2024/12/26)