生まれた意味

 みなさんは、自分が生まれた意味はあると思っていますか。それとも、生きる意味はないと感じて生きていますか。こういう問いを避けたり嫌ったりする人は、そもそも自分だけを考えたくもないか考えるべきでない、と普段思って生きているのではと思います。ですから、この問いは、さまざまな答え方がある、というよりも、立場がいくつかだけある、という種類の問題かと思います。

 ただ、意味という言葉を、生につなげて考えられる人がいる以上、わたしは生に意味はあるのだとずっと思って考えています。それで、生に意味を見出した人の本を何十冊か持っていて、気ままに読み比べてきました。すると、生に見出した意味には、やや世の中では言われない性質を伴うことがわかりました。

 それはつまり、泣く、悔いる、改める、ことをいかに深くやったか、によって、どれだけ深い意味を得るかが決まるように思ったのです。

 そもそも、生きるとは、生きている、と、生きていく、で8割を占めるようなものでしょう。つまり、現存在と未来への意志ですね。ただ、物質性に人は意味を読み取れないものですし、未来は人にはわからないものです。ですから、これら8割に対して意味を求める限り、人は意味を得られないのだろうと思います。それでは、生きる意味はどこにあるかと言えば、命として動いているところには意味がある、というか、それが意味である、のだと思います。

 おそらくそれは、快楽やただ楽しい、というのでなく、泣く、悔いる、己を改める、というときに、得るものではないでしょうか。たとえば、なにか苦労して人の役に立って報われたように感じた、というとき、もし、苦労なく人の役に立っても、なにか報われたと思うでしょうか。わたしがなにかした?と思うだけでしょう。ですから、意味がわからないのです。つまり、意味が生まれるには、苦労を通じた涙や後悔や自己変革の意志とその成就がいるのです。

 ですから、生きる意味を考えたり追求することは、非常に意味がある行いで、むしろ誰でもできることですから、誰だってしたらいいんです。それぞれでしばしば語られているように、生きる意味はない、と悟った、と語る人の話を注意深く聞いてみると、必ずその人は、生きる意味をずっと考え悩んだ人ではないですか。結局、涙や後悔や自己変革を達成経験したから、意味を考えていた意味は忘れたけど、そのようなことまで考えられたのですから、やはり悩みを悩むことに意味はあるのです。

 ロボットや人工知能に意味を実装できるか、という研究が、すでに半世紀以上なされています。少なくとも、苦労できるロボットや人工知能でないと、意味など持ち得ないでしょう。つまり、人の言葉や動きにセンスデータの優位性を認め、己の身体ないし知能の構造を認識して見直し、定義域や命題関係数などの計算可能範囲を莫迦様に拡大しなくては、自ら動いて解決するものはできないのではないかと思います。

 そうしたって、それらは人が考え得た数学の上に成り立っているのですから、その数学で人が完全に制御できるものにすぎません。ですから、いくらロボットが自律的に動き、人工知能がいくら連結増殖してシステムを成したって、それらを人間は完全に制御できるので、人間がそれらに支配されることなど起こり得ない絵空事なのです。

 人は神がつくりました。だから神は人を完全に支配できます。ロボットと人工知能も人が作るものです。どうして人が支配できないことがありますか。神のように命を作れるなんて、人の思い上がりです。人は人として生まれたのですから、人として生めるものしか生めません。それもまた、人が生まれた意味なのです。

(2024/12/29)