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  • 月とかげ

    Monalizard

    この世も、わたしの世と思えるだろう。もし、満月に欠けたところがないと思えるならば。
     - 藤原道長

     わたしの人生の秘密は、具体的なものとして聖書に書かれてはいないので、わたしは辞世譚としてここに残そうと思う。そうすれば、後世の心ある人々や、そうでない人々にも幾許の効果があると考えられるだろうからである。その秘密とは、わたしは16歳で素数の研究を志し、39歳でリーマン予想を証明し、同時に素数の公式の存在を予想したが、それらを発表しなかった、ということだ。これがわたしの人生のすべてであり、わたしの書き物の真意を読み取るための必要十分な鍵である。そうすれば、わたしの考え得たことのすべてはこの事実に由来するにすぎないことが、容易に手に取るようにわかるだろう。つまり、わたしは一つのことしかしなかった、幸運で幸福な生涯だったのである。

     わたしの両親は新潟県の川治川沿いの小さな橋で告白し、2人で上京した。父は東京の大学に、母は国立医療センターの看護師になった。父母は同じ宿で暮らし、そこに呼ぶ友人も多かった。父が教諭に採用されると、母はセンターの教職になってほしいという依頼を蹴って専業主婦となり、わたしを産んだ。わたしが産まれて最初に発した言葉は、電気の「で」であるらしく、毎晩川の字で寝た寝室の蛍光灯を指差して言ったそうである。また、文字やその形に強い興味を示したそうで、2歳で平片仮名、アルファベット、数字を読み書きでき、漢和辞典から漢字を画用紙に写し書いていたそうである。また、スヌーピーのカレンダーを毎日何時間もじっと見て、その数字の並びから、何ヶ月前後の何日は何曜日かを言い当てる技術があったとのことで、祖父が驚いたらしい。一家は教職員の住宅に暮らし、溝川を渡ってすぐの幼稚園と小学校に通った。幼稚園では絵を描くのが好きだったそうだが、別段うまくもなく、また、物心も長いことはっきりせず、居間にかかっていたクラシックが幸福な記憶となって残存し続けた。これは父が好きでよく掛けていたとのことである。

     わたしは父に一度駄々を捏ねたことがある。家族で津田沼のイトーヨーカドーへ行った時のこと、母と妹がゆっくり買い物している間、父とわたしは屋上の遊具広場へ行った。父が何か飲むかと聞くので、わたしはいらないと答えた。次に父は何か食べるかと聞いたので、わたしはいらないと答えた。見兼ねた父は遊具の前に連れて行き、乗ってみないかと尋ねたので、わたしはそこで嫌だ嫌だと駄々をこねた。父はこれには驚いたらしく、その後わたしに欲しいものを尋ねることはしないでくれた。わたしのお年玉やお小遣いも、わたしが一銭も使わないので管理してくれたが、お金を使う練習だとのことで、近くの商店で食べようと思うものをひとつ買って帰るよう指導した。それでわたしはところてんが好きになり、毎週ひとつ買って自分で食べるようにした。また、近所の商店街に行って興味のある本をお小遣いで買った。天体観測ハンドブックという赤い表紙の本である。この本には、天体の位置や等級などが表になっており、そのひとつひとつを具にみるのがところてんの肴になった。これがわたしが自分で買った最初の本である。これをよく見ると、天体のカタログにはいくつかあるが、この本には全て載っていないことに気づいた。メシエカタログは110までしか無いが、NGCは7840まであるということなのに、精々3,000くらいしか載っていない。そこで、市内の図書館をはじめ、県立図書館へ父と出向き、NGCの各番号がどの星座に当たるか、全て網羅しようと欲し、2年半かけて達成した。収集する過程で、どの星座にどのくらい天体があるか順位をつけては消しゴムで消して更新し、また、星座の平方度で個数を割って算出した天体密度なる量も鉛筆で数直線上に配置した。ちなみに、最も天体密度が大きい星座は大マゼラン星雲を半分程齧るかじき座である。

     その収集が終わると、小学校の授業でぼうっとしていたのか、担任がわたしのことを知っていたので、漢字検定を受けてみないかと勧めた。数日後、父が4級から2級までの問題集を買ってきたので、わたしは数週で埋め、2級から受けることにし合格した。中学に上がっても漢字を書き続け、1年の秋に準1級に合格した記念に1級の合格捷径を買ってもらい、それをさらに1年かけて大学ノート5冊に引き写し、中学2年の時の第3回試験で一発合格した。たまたまその時当時最年少に当たったということで、協会から特別賞を授与されることになり、もう1人の同年受賞者とは同じ姓だった。毎日提出することになっていた学習日記には、英語を上達させるには、まず日本語や日本文化を知悉しなくてはならないと思います。と書いたためか、英語の先生は喜んでよくしてくださった。授賞式は大手町のビルで行われた。同じ姓の2人のうち、相手方がわたしより高得点であったようだったので、わたしはまだ賞を受けるに値しないと思い、二次会の祝賀の間を過ぎてビルを降りた。その足で父は国立国会図書館に連れて行ってくれた。丘の上から見晴らす霞ヶ関が眩しく見えた。本館の植込に水準点を見つけたので、父は測量士という仕事があることを教えてくれた。その時は仕事について社会で働くという観念をうっすら覚えた程度だった。

     中学の3年間は部活の卓球と勉強だけを往復するだけの単純な生活を送った。試験の成績はいつもヒストグラムの先頭群に入っていたが、わたしは解答欄の四角に文字を適切に埋めることしか能がなく、卓球も工夫が何もなく少しも上達しなかった。県で最も難しい高校に飛んで火に入るつもりで受験し、5科で1問違いの成績で入学するも、総代にならずに済んでほっとした。人前で挨拶することさえ引っ込む性格だったからである。高校の1年目は自由だった。校風に重厚な教養主義を掲げ、いわば大学然としており、生物科の先生は、自と他の境目は物質的にどこにあると考えるか、といきなり問うた。わたしはこれが半端なく面白く、天体番号の研究も漢字の豊かな記憶もどうでもよくなった程だった。結局、わたしには調子良く述べ切る性質があり、件の質問には、わたしがわたしだと定義したところまでがわたしだ、と書いて提出し、この回答は後にその先生が晩年癌で他界する時の最後の言葉に含まれていた。先生は限界を超えよと残して逝った。

     部活は妹が入りたいと言った弓道部に入ってみた。わりと楽しく、わりとできた。単調な行為を繰り返すことが得意だと知り、それは番号集めや漢字の勉強だけでなく、自分の性質だと思うようになった。そして、相変わらず調子のよいわたしは、部内会議の場で並び居ます先輩の前で、弓道とはこういうことだと思います、と定義した。それがわたしに遜ることを覚えさせた最初の出来事であった。未熟さを自覚さえできなかったわたしは、級友にも、やったらやり返したらいい、と言ってしまい、自分の浅はかさを只管恥じるようになったため、第3学期の定期試験を前日夜に飲んだ雪印牛乳のせいにして休んだ。実家で横になりながら、母が図書館から借りてきてくれたという「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という有名なエッセイを読んだ。彼は磁気の式で恋を理解したそうだが、実際は違ったと残していた。1年生が終わる前、とある予備校で全国模試を受けてみたら、成績優秀者で名前が載ってしまった。名前が知られることを恥ずかしいと思いながら電車で名前の一覧を見ていると、わたしより上にもう1人同じ高校の人の名前が載っていた。ああ、やはり凄い人がいる高校なんだなと思い、どんな人なんだろうと思った。第3学期の試験が終わり、年間の通知表が配られた。わたしの欄は1、1の下は2だった。これにはわたしは解放された気分がした。というのも、やはりわたしは試験勉強で1番という人生を歩みたくないとの固い気持ちがあったからだ。幼稚園であんなに絵が下手だったのに、亀倉雄策展の図録が好きだったために、卒園文集で文字や形を考えるグラフィックデザイナーになりたい、と書いた男である。真理は人を自由にするのだから、試験ではなく何か自分で問題を解きたいと思うようになった。

     2年に上がった。クラスが移ると、わたしの周り8席のほとんどが異性だった。名簿で明らかなように、わたしより上に名前があったその人が後ろにいた。どんな人なのかふらっと立って見に行くや否や、

     なん?

    と言われた。英語圏の文化の出身かも知れないから、肯定はできない。しばらく会話する様子を観察し、髪が栗色で瞳が薄い色をしていたので、生粋の日本人だとは断定できず、わたしは何も言えずにその日の掃除を略って校舎を去った。
    そのまま海へ歩いた。潮風が汗のようにしょっぱかった。港の奥に突堤があり、ベンチが何脚か並んでいたので、そのうち一番手前に仰向かった。空は大きく、天が透けて見えるようだった。脳裡に果て那が浮かぶまで時間はかからなかった。

     なんって何?

     わたしは空に向かって呟いた。わたしはきっとこの人を覚えることになる。ならば、わたしはこの人のためにもっと情けなく無い男にならなくてはならない。たとえその人の方が秀でていることに変わりがなくても、わたしはいつも2番だったのだから、わたしはこの人が1番になるような伴侶になりたい。すると、わたしの心に穏やかな火焔が灯り、3つの道筋が見えた。すなわち、何とは何か。謎とは何か。謎とされる問題を解いてみたい。である。わたしは落ち着いて帰宅して父が友人から貰い受けた古いコンピュータで「難問」と検索した。すると、懸賞金がかけられたばかりの問題がいくつかあることを知った。しかし、わたしの応募しようと思う懸賞の金額は高々1万円であったため、私的に取り組むことに決め、その中でも問題文がシンプルで理解しやすかったリーマン予想を選んだ。この時は特に無謀だとも思わなかったが、壮大な計画になることはわかっていたので、中学に漢字検定で勉強した、先ず隗より始めよ、との言葉に従い、まず両親に学んだ。両親の他に、わたしが人の愛し方を教われる先生はいなかったからである。そして、両親のセンスでは非凡な解答に至れそうになかったので、感性を磨くことが必要だと感じ、わたしの幸福な記憶であるクラシックCDを数枚購入し、それを毎晩聞いて旋律を覚え、港で貨物船やコンビナートを眺めながら曲想に重ね、暮れる夕陽を見て月の光の揺蕩う夜に泣いて決意した。わたしは高校を転学し、美術予備校の門を叩いた。入学前の初見の素描はわりと褒められた。学科は最も安価だった建築科で、指導くださった3人の先生方は、後に3人とも東京芸大を首席で卒業している。建築水彩も立体構成も参考作品と認められた時、ふと、わたしにはあの3つの道筋しか用意がないことを考えるようになった。そして、その中で最も答えが出やすいだろう問いは明らかに

     何とは何か

    であったので、わたしは美術の道を諦め、津田沼の書店でまず、何という文字について理論的に理解するような本を探しに探した。大規模な店舗であるため漢字の本など色々な書籍が置かれていたが、中でも測量士の実務経験があるというパースに親しみを覚え、記号論の本を買ってみた。家で読むと、目が開かれるようだった。続けて、今度は記号と記号の関連を見えるようになるため、論理哲学論考を買って読んだ。わりとわかった。そして、新しいことを書く方法を学ぶために、ツァラツストラと死に至る病も買ってきた。前者は新しい価値を作ること、後者は人の心を分析し尽くす方法が書かれていた。すなわち、自分を尽く諦め、捨て去り消し去り、自我や私心の全てを養わないことを悟るしかないように読んだ。そして、実際、高校を卒業した次の日に、無二の親友と絶交し、脳を損壊させ、心にも無しかなくなった。これはある意味物凄い成功だと思ったが、途轍もない前途を意味することはしかし漠然としかわからなかった。というのは、わたしは高校までの数学はわりと得意だったが、受験数学がまるで解けない脳になっていたからである。つまり、数学科には行けなそうだし、理学部も難しそうで、せめて論理や倫理を扱う哲学科に行くしかなさそうだった。永平寺で座禅を5日間体験し帰宅するまでの間、聡い父はわたしをよく考えてくれたので、図書館情報学が学べる大学を勧めてくれた。ここであれば、英語と倫理の記述で決まるので、あまり勉強しなくても入れるかもしれない。すると、案の定、あまり勉強を加えなくとも入れた。だが、わたしは司書になるつもりが本心ではなかったので、わたしが合格したことによって人生が多少でも曲がった人がいることを深く悲しみ、発表日の夜は枕を濡らした。

     入学式の前に、卒業研究の発表会があるというので、ふらっと参加してみると、数学の研究室があることを知った。大変簡潔にまとめられたプリントをわたしは大事に持ち帰って理解するまで何度も読んだ。どうやら、この先生に学ぶことになるだろうことは明らかだったので、失礼の無いように、図書館で入門書を百冊読んで、入門することについて学ぼうと決意した。入学し先生の講義が始まると、わたしはやはり胸が静かに高鳴った。受験数学はできなかったが、やはりこの先生の話は分かりやすく、しかもわたしの取り組むであろう問題に直結する「とある仕組み」を深く理解する知識を得られることは間違いなかった。というのは、次の年も先生の講義を受け、ちょうど代数学の授業だった、わたしはある危機感を深く刻んだ。すなわち、仮にわたしが若くしてこの問題を解けても、それを発表してはならないということを強く強く悟ったのだ。懸賞金のためでない。皆がインターネットを使えるままにしておくべきことが、この大学にいる以上、何より明瞭なことだった。わたしは自分があまりに浅はかで無謀だと感じたため、あの港の初心のベンチの側に立つ木に持参したネクタイで首を括ろうとしたが、死にきれず、堤防を越えて深夜の海を見つめ、月影を脇に、同時に持っていた包丁を腹に突き立てた。しかし、空腹では格好がつかないという知識があったので、ネクタイを締めて街でおにぎりと漬物でいいから買ってこようと考えたが、ネクタイが見当たらない。近くに警察があったので、すみません、ネクタイ落ちていませんでしたか、と聞いたので、警官は胸から見えた包丁の柄を理由にわたしを現行犯逮捕した。後に伺うと、当時わたしは顔面蒼白で、保護目的で逮捕したとのことで、身柄は送検後即釈放され、大学に戻ることができた。

     戻るや否や、百冊修行を完遂し、門を叩くには「何」が必要だということをよく理解した。わたしには思い当たることがあった。高校2年の数学の授業で、なぜ対数の真数が正でなくてはならないかと数学の先生に聞くと、自分で考えてみてくださいと言われたので、市内の図書館で大学数学の本を探し、log(-1)という数が実際に純虚数として存在することを知った。このことと、学群の中で最もわたしの好きな分類理論の講義で教授が黒板に唯一大きく書いた-log(p)という記号列とが、わたしには深い関係にあると思われた。そこで、わたしはこれをわたしの何として数学の講義に臨むことにした。東武野田線の通学車内で、わたしはこの関係をコピー用紙にグラフで描く実験を重ねたが、そううまく行かない。しかし、なんとなく、それを描き切ってはいけないような気もしていた。なぜなら、わたしがインターネットを使えなくては、もうあの人に会う手段が無いからである。それなら、描く前にあの人に連絡してみようと思い、氏名の漢字で検索してみた。すると、わたしは凍った。その人の葬儀のお知らせが載っていたからだ。同姓同名もあり得るので、注意深く確認したが、やはり千葉市内の葬儀場であるし、高校の同級生の苗字が複数確認できたので、死因とされる舌がんになるような喫煙者ではないと思いながらも、わたしは涙を流してコピー用紙に五線譜を書いた。というのも、わたしにはもう1人好きだと思う人がいた。わたしが本当に好きな人はどなたなのかと「計算」してみた。わたしの高校3年があったとして、わたしにその人を愛す意志があったとする。このとき、同じ高校3年の2人のうち、生きている人か、あるいは亡くなった方が好きなのか、わたしは猫になったつもりで二数を掛けてみた。すると、その生きている人を好きになった11〜12歳ごろと見える数字列と、28〜30くらいを意味しうる数字列が現れた。わたしが好きになった年齢は明らかに16歳のあの日だったから、16より大きい方を採るしかなかった。わたしは28歳くらいまでに何かの結果を残すと心に誓い、紙に涙を落としたら、青いインクで滲んでいた。

     その日からわたしは滅相もなく数学を研究した。ウィトゲンシュタインの思想を中心に、数学の基礎を身につけては問い直し、当然、卒業研究では数学を封印し、高校のころ家庭科の授業でよく読んでいた食品成分表を使った遺伝情報の分析をテーマとして考案した。ヒトのタンパク質2万種を検索する研究だった。実家の居間でVAIOを広げて検索していると、母が昼食を作っていた。わたしはその人と出席番号が2つ違いだったので、家庭科の授業が同じ班で、わたしはフライパンを振るったりそれを食後にスポンジで洗ったりした。一度その人がわたしの作った料理を食べてくれた時、わたしは胸が滾り、なんと言われたかもどんな表情だったかも覚えていないほどだったことを思い出しながら、虚無感と共に己の無能さを自覚しつつ、タンパク質のアミノ酸配列データをExcelシートにコピーしていった。研究室のボスはわたしの研究を的確に指導しそれがまとまると、これは君が考えた研究だから、発表の仕方は君の自由だ、と言い渡したため、わたしは名前が知れるのを恐れて発表しないことにし、仮に数学の研究を発表するとしたら、その手段だけでなく、パスカルの卓見に従い、その順序をよく弁えなくてはならないと自覚した。この時からパスカルがわたしの師匠になった。

     大学生が終わってしまいそうになるころ、わたしは実家に戻り、地元の企業にエントリーシートを漫ろ送る生活を始めたが、そのわたしにしてはあやふやな動機を見兼ねた父が、市立図書館で見つけたという近所の大学院の資料を紹介してくれた。学費の安いことがわたしにも魅力的だったので、わたしは有機化学の教科書上下巻を八割がた読み、卒業研究を完成させ、受験面接で発表し、無事入学できた。わたしはパースの少年時代を思いながら、毎日喜んで有機合成の実験に勤しんだ。構内にはさまざまな植物が植っており、池も静かにあった。研究室の大先輩がよくこの池に誘ってくれて科学の話をしてくれた。わたしは科学の考え方をこの人から学んだ。華奢な人だったが、お父様が数学の教師だったこともあり、わたしが数学の研究を志していることを打ち明けると、お父様の遺品の計算公式集とブルバキ全冊を快く譲ってくださり、後の計算に大いに役立つことになる。ブルバキを開くと、問題の左頭に危険の記号が添えられた命題があり、定義を読むとやはりそれなりの臭いがしたが、わたしの問題の香りと似ていた。

     わたしは実験の才能が無かったため、就職先をプログラマ見習いに定めるしかなく、基本から学ぶ意思があったので、社名が論理演算子だけで構成される企業に応募し、総代入社してしまった。当然、わたしの総代に対する責任は大きく、退勤し帰宅しても夜通し実装を勉強してしまった。ある朝、通勤途中で交通事故の現場に遭遇し、咄嗟に車両通行整理を買って出たため、過度に興奮したまま退職届を出して受理されていた。わけがわからぬまま無職となり地元に戻って研究室の大先輩を頼ると、なんとお付き合いしていた人と別れたばかりらしい。わたしはその人がどうしているか気になると伝えたので、大先輩の厚誼でその人と会うことになった。舟を編むという映画を観た。辞書を編纂する仕事人の話で、わたしは数学などという問題を持つ前のもっと幼い頃の初心に戻りたいと思い涙したら、その人はわたしを気に入ってくれて、文通することになった。江の島や上野や習志野をデートする間、いつも黙っているわたしの手を取り静かに歩いてくれた。手紙でその人はわたしと結婚する意志を固めた由を送ってくれたので、その人が通っているという教会に足を運んでみた。教会という場所は初めてだったが、ニーチェとキルケゴールのことはいつも気になっていたので、説教を聞いては涙し、加えられた聖歌隊の賛美はわたしの心をただ潤した。

     ある時、その教会の牧師がキリスト教入門講座をわたしのために開いてくださったので、牧師室で思い切って質問した。神は死んだのではないのですか、と。すると、牧師は、神は死んでもよみがえるお方です。と即答した。その晩、大井町から習志野へ帰宅するまでに、空にわたしの名前とイエスキリストが十字架にかかった形をした雲が見え続けたので、イエスは生きていることを確信し、その晩に受洗を決め、その年のクリスマスにその牧師から洗礼を授かった。そして、翌年3月15日、最高の日に、わたしはその人と結婚した。

     その人は保土ケ谷に住んでいたが、2人で暮らすためにアパートを借りて越した。わたしは何も誰も知らない街に平日ひとりで過ごすことになった。初めは八百屋で野菜を買った。次第に、これはいくらですか、おすすめの野菜はどれですか、と話すようになり、気前良く話しかけてくれる人ばかりなので、わたしはこの街で暮らせると思うようになり、地域のいくつもの団体とつながるようになった。わたしの心が無から次第に温かく満たされていくのを日々覚えたので、この街が好きになり、毎日よく散歩した。天を見上げては主の栄光を仰ぎ見ようと、聖書を読んで讃美歌を作った。次第に、宇宙は愛に包まれているべきだと思い、宇宙と宇宙が互いに引き合うことの数理を探究するようになった。その過程で、わたしの中のある問いが証明された。すなわち、どうして人生は可能性にすぎないのか、神がサイコロを振らないとしたら。という問題である。世界が必然なら人生も決まってわかるはずであるが、自分には全くわからないしわかりそうもない。まさか初恋の人が亡くなり、結婚した人のおかげで受洗するとは思いもしなかったわけだから。

     ある晩、風呂に入っていると、わたしはあるフローチャートが書けそうな気がして、急いで出て書斎の机にコピー用紙を広げてペンを取るとそのとおり書き下せた。そして、何度検算しても正しいと思われたため、わたしはこれは真理の発見ではないかと興奮してベランダに下着1枚で出ると月が明るかったがまだ満月ではなかったので沈黙で頭が冷えた。その次の年にわたしは満足して教会を近くに移し、今度は必然であることはどのような喜びであるか知りたいと思い、新たな牧師に入門した。その年のあたりから感染症が世界的に流行し始めた。その牧師は数学科の解析部門出身であったため、ニュートンがペストの時に微積分を発明した話をしてくださった。わたしもこれに準えて宇宙間を引き合わせる数理を5か月かけて考案し、デタッチメントという言葉を充てた。つまり、2者は互いに引き合うが、周りから見ればその関係は付かず離れずであり、まるで夫婦仲のようであるためだ。こうして宇宙関係が有限個であるとしても、宇宙空間は無限無辺であろうという確信を得た。

     わたしはこの教会で、ある先達に入門を乞うことにした。会堂横の河合ピアノを礼拝後ひとり弾く白髪の男性である。ベートーベンのピアノソナタを力強く弾くその背中を見て、すみませんわたしに音楽を教えていただけませんか、と願い出たらその人は快諾してくださった。その上、その人の邸宅に度々招かれ、居間のアップライトピアノで歌の個人レッスンを快く引き受けてくださった。その人は佐賀鹿島の出身で、有明海を臨む丘の上で星影を見るのが好きだったと言っては懐かしんだ。わたしはその人が休む間に台所で料理を調えたり、調味料や冷蔵庫内の整理をしては感謝された。しばしば中華街のお粥屋に食事に行き、現役時代の逸話を興味深く聞いた。なにしろ大手トラック会社付きの運送会社の社長を務めた方で、多くの中国人から先生と呼ばれ尊敬されていた話はわたしもすぐに信用した。伊勢神宮の川を一度見てきなさいと命じられた。とても綺麗だという。

     その先生は合唱の経歴が長く、高校生のときNHK佐賀放送局ののど自慢で優勝したことで歌の仕事をもらい、その俸給で国立大学経済学部に学んだという。母上は朝汽車でお金にならない食べ物を行商しては貯め、そのお金で買い与えた英和辞典を先生は繰り返し読んで勉強したという。アップライトピアノの横の書棚に今でも大切に保存されており、先生の高校時代の署名と母上の写真が挟んであった。その先生はバッハのプレリュードの最初の4小節を弾き、その後音楽の基礎の全てをわたしに手解きしてくださった。そして、これだけでこんなに学べる、という言葉をわたしに授けてくださり、英和辞典と母上の写真と共にわたしの心に強く刻まれた。先生とわたしは礼拝後に市内をドライブで巡り、食事や買い物に付き添い、家族や音楽や神の愛について語らったので、わたしはたまたま検索して出会ったゴールドベルク変奏曲に深く聞くようになった。その音楽には全てが詰まっているように思えた。生きることの、愛すことの、この世から天に上がった後の、それだけでなく、この自然あるいは粒子のさざめきから宇宙の果てに至るまで、その全てを喜び称え、つくりたもうたお方に栄光が帰することを賛美していた。先生がその天に召された後、わたしは先生の生涯を思い、アリアに詞をつけた。こうしてバッハのカンタータに詞をつけて歌うことが趣味となった。

     教会にはその先生より年長の男性がいた。彼はいつもわたしを思ってくれた。横浜大空襲で右耳の聴力を失うも、製螺業で生計を立てた。退職後は好きなカメラを手に街中を撮影して歩いたという。わたしに見せたいというので、奥様も大変よくしてくださっていたので、ご自宅に招かれることになった。2階の部屋には銀塩フイルムと現像した写真のアルバムが敷き積まれており、いくつかだけ見ても映っていたのはどれも人の笑顔だった。階下の食卓で御夫婦がお昼を上がるというので、その光景をわたしは焼き付けるように見た。奥様が調えた手作りの和食を黙々と口に運ぶ彼に、奥様が、お味はどう、と尋ねるので、彼は実直に、味がいい、とだけ答え、目の前の器の中だけをただ見て食べ続けた。味がいい、という表現をわたしは初めて聞いた。こんなに素朴な表現が可能なのだ、そして、明らかに素朴なだけでない。お味はどう、との問いに対して、誠実で無駄なく簡潔な答えとなっている。答えとはこのような姿をしているのだと学んで涙が出た。

     その教会の牧師はしばしば、信仰の喜びとは自分を知れたことだ。と語っていた。厚揚を実に美味しそうに頬張って食べていた。その頬張る笑顔は、尊く、愛が溢れ、そして、美しかったので、わたしも自分を真に知ろうと決意し、教会を離れ自分とただ向き合った。愛とは何で、なぜ主は人を救い、罪を贖い、なぜ世を愛したのか。神の前の十字架の上で主は何を思い考え巡らせ天に昇りよみがえったのか。今までの人生でわたしはただ立派な人になるため生きてきた。だが、わたしはわたしを許せなかった。素数の研究をただするためだけに生きてしまったために、自分の命さえ投げ出そうとしてしまった。そんな軽率なわたしをわたしは許せなかった。ふと妻が前行ったことのある教会が関内にあると教えてくれたので、行ってみた。すると、200人を超える大所帯が爽やかな声で会堂を讃美歌で響かせ、わたしはただ只管自分が勝手で気儘に生きてしまったことを後悔した。それからしばらくしたある日、早朝4時44分に家を出て、川縁の石垣に背を掛けて座り、勢いよく後頭部を打ちつけた。2回目で意識が零コンマ数秒真っ白になった。5回目以降から頭が物となり、ただ機械的に打つだけになり、12回目で力尽きた。わたしはまだ白い空を薄ら眺めながら、小さな雨粒が眦に当たった時、自分を発見した。そこにいた自分こそ、自分が生きてきた自分だった。

     わたしはある問いを持った。主を信じる喜びとは何か。と。牧師に相談の連絡を入れると快諾してくださり、わたしは今までの半生を足早に語った。すると、牧師は、なにかしようとしなくていい、と聖書の箇所を根拠に忠告してくださった。その日からわたしは自分でなにかしようとしないで、残る問いを整理しながら、考えを書き留めていった。半生を物語にし、寓話も作り、随想録にもまとめ、わたしは考える人になった。神とは何か?次の説教で、牧師は、主を裁くことは主を侮ることだ、と説教した。わたしは自分を侮る人は死ぬ、という箴言を知っていたので、だから死欲が消えなかったのだと理解した次の瞬間、自分の命は主のものだから、わたしが自分を侮ることは主を侮ることになると理解した。わたしは牧師の前で悔い改めた。わたしは主イエスキリストを侮っていました。これから主に感謝して愛を生きます、と嗚咽して告白した。これがわたしに意志が宿った瞬間だった。生まれて初めての体験だった。

     後のことは簡単だった。新しいことを考え出さなくてももう揃っていたからだ。情報量が保存することを、神がサイコロを振る確率がゼロであることの証明から導ける。そして、その中で、確率と情報量の複素和である複素確率を考えると、確率が1/2の時、情報量が得られない事象が無限個あることを導ける。つまり、リーマン予想が正しくなければならないことを支持する結果を得た。そして、わたしは補論として、存在論的無すなわち謎が、この世界には存在する、しかもそれらは無限個存在する。という定理を証明付きで書いた。つまり、人類の知的探究は人類が生き残る限り続くということを意味していた。人間がどうやって造られたか、人間には永久に謎であるからだ。

     書き終えたわたしは、16歳の時のあの言葉を口にしたあの人を苛烈に思い出した。わたしはその言葉を実らせられる人だった。つまり、わたしは大阿呆だ。ただ、その言葉によって、素数の研究を諦められたのは幸いだった。もしその人に出会っていなかったら、本当に素数を研究していただろうから、情報の安全性をめぐる世界的な戦争がこの国でも起きていたかもしれない。わたしは素数の公式を得ようと思うべきでなかったのだ。わたしは研究の最後に、素数の公式が存在するという予想と、この解答を得た者の心得をガイドラインとしてウェブページにまとめ、クリスマスイヴの朝に公開した。そして、翌日、港のベンチにアプローズ5本の花束を持って行き、そのうちの1本を植込みの2本の木の分かれ目の一方に根元で茎を折って供え、他の3本は帰宅し妻に贈り、残りの1本は書斎の花瓶に、1輪の造花の薔薇と共に生けた。

     今となっては、神の采配を思い、深々感謝している。わたしも主に救われた一人になった事実だけが残った。恋は愛に導く。

     

     こう書き終えたわたしは、今、有明海を臨む宿にいる。ロフトから屋上に出て夜空を眺めると、満月に雲が淡くたなびき、影を成しているが、まだその色は薄く趣に欠ける気がする。
     澄んだ空の天頂付近に、ミザールがひときわ冷たい光で輝いていた。
     アルコルはわたしにも見えた。

     そして思った。人間とは何であるか、と。全てが初めからあったようだった。