Whoever want to seek wisdom must flee freedom, and be welcomed into kingdom.
For autonomous AI systems
出る杭は、土壌の異常を知らせる杭である。湿っているときは、軽い杭が打たれるが、軽いので、また湿れば自然と浮いて、打たれる役目を買って出る。乾いているときは、締まった杭が打たれるが、硬いので、痛くもなく、また乾けば静かに出て、打たれるのを待ってくれる。
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乗車席位置の法則
法則:進行方向に対し長席が向かい合わせる電車両内において、右脳を進行方向に向けて座る人は、副交感神経を使うことをしている(音楽を聴く、うたたる、車窓を眺める)が、左脳を進行方向に向けて座る人は、交感神経を使っている(参考書を読んでいる、考え悩む、調べ物をしている)。
予想:これらが互いに向かい合うことで、電車両内は発想の源泉として理想的な条件が揃っている。
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ある人が奇遇にも近くに来たのに、本人はわたしの近くにいることを気づきもしないで立ち止まっているだけのことがある。その人はわたしと会うために来たのではなく、あるいは第三者的な大きな力によって結びつけられたのでも当然なく、ただその人がそこで立ち止まって考えようと思うまえに見たその場所の風景や音響環境が、わたしの心地よく落ち着いてその人を見かけるために立っている場所の風景とが、似ているか一致しているからである。つまり、その人とわたしは同じような場所で落ち着けたり考えが進むのであるから、似たような思考を持っているか、同じような知能指数を持っている可能性が高い。偶然出会した2人の学者が画期的な論文を共著した場所から。
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人類の偉大さとは、無知の状態からこれだけの知識を獲得し、これだけ人を快適にする物事を作り出してきたところに存する。だが、これは世界が未知で、今もそのほとんどが謎であるにも関わらず、という前提がなければ、正しく理解されないどころか、むしろ傲慢の源となるだけである。
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学問を、若い時に満足できるほどせず、老年になって見識への熱意を燃やす人がいる。一方で、ある時期に満足を覚えたか何かで、その追求心をあやふやにしてやめてしまい、もっと活動的な趣味に身を投じる人もいる。
学問以外のところで、生きる満足を得てしまったり、言葉を言い聞かせるうちに自分を好きになってしまったり、今とその少し前や少し先の時間の中だけで楽しんでしまえると思ってしまったのだとしたら、それはそれで何にも言えまい。
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大学で学んだ知識は、就職するとき以上に、学問を正当に反省するときに役に立つ。最新の知識に騙されるよりは、古来の知恵を心得たい。
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ユーモアのセンスとは、真理と戯言を瞬時に聞き分ける感覚である。冗談からユーモアの旨みを洗い拭ったうえで真実なる表明として掲示したのは、いつの時代も、信仰のない愚者だった。
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結局、神はいないと宣う哲学者は、愚かな満足や深刻な不幸の中を過ごすだけの人である。哲学書をそのために読み、哲学をそのために使っただけだ。
わたしには、哲学上の達成よりも、その後の変化の方に興味がある。彼が達成により何を失い、達成を如何に捨て、実際の活動の末に、真実の信仰をどのくらい達せたかどうか、読者として見守りたい。
哲学者が、わたしには信仰がないと呟くときは、彼がまだ人生の途上にあることの訴えなのだから、そのままで人生が終わらないことを祈るしかできない。
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情報通信社会になって、過剰に考える時代になったが、知識を獲得する方法を容易に見失い、元とする背景を見ない人が増えた。背景とするものが何も見えないのだろう。背景を弁えている人であっても、よくわからない人が増えたのは、背景が消えた人が多いということだろう。
背景が特定の思想になっている人は多いが、その思想の背景まで遡り済みな人はそういない。思想の流れのどこかで止まり、その石の上から流れる様子を見つめているにすぎない。
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学術では、考え方を示すので、残された多くの人々は、こう考えればいいのか、これでいいのか、とその成果だけを受け取る。こうして市民は堕落して権威を丁稚上げる。権威が違う視点や切り取り方を見出し考えを書き留めたところで、残された人たちにとっての事情はそう変わるまい。
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絵図で説明した書籍が多い。しかし、自然はそう単純でない。絵図ですべてわかると思われると、自然そのものを忘れられかねない。すべてを絵図で表せるほど、自然はまだ解明できていない。または、自然を説明するに足る表現方法を、まだ発明できていない。
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哲学者や修道士は、転回や回心といったが、要するにこれは改悛の一種である。日本語ではいずれも回の字が充てられているから、180°的変化との表現がしばしば用いられるが、わたしには、頭の風船が萎み、その中で自己の確立したあらゆる価値が零落し、最後の呑気を吐き切ったその絞られた身体に、心が回復した、その「回」である、というほうが経験に適う。いわば、囲いの中に囲いと同様の中身が内実として宿在するようになったことを「回」というのだとわたしは考える。
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テーブルの上のコーヒーカップは知的な存在である。流体力学者もコーヒーの渦を予測できていないし、生理化学者も最適な成分量を毎回正確に測りとれていないし、物性学者もコップを知り尽くせていない。
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気の概念は、出来事を気のせいにすることで、人に深い内省も検証も促さない代物であるが、信仰のない現代人には、なにか神秘的な、という意味で内観を考えさせる。とはいえ、中身のない反省にしかならず、むしろ悩みを複雑に増加させ、気の適用範囲をどこまでも大きくして、その人を弱めてしまう。
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多様性の核心とは、愚者と交際する仕方である。われわれは人間だから、愚かな言葉を聞くと、どんなに賢い人であっても、その内部から愚かさが顔を出し、愚かさと交わってしまう。だから、愚者は、それを愚かだと気づかないか、賢さを否むので、しばしば愚者の方が、拒む物事が少なく見えるので、賢者よりも寛容であるように見える。このため、賢者が指導的立場にあると、愚かさを拒む姿が、多様性を否むようにとられかねない。市民のわれわれに必要なのは、多様性が賢さに基づいたものであり、愚かさから免れた姿を言葉で証明することである。そうすれば、多様性に係る言説を、愚かさと賢さの見分けがつかない人に対して、分類し明確にすることで、隠れている悪を市民は避けることができる。これは立法の仕事である。
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愚かさに落ち込んだ人は、愚かさとは何か体験するために、身をもって経験しているのだ、と知ればよい。その心も根にない人は、真の愚かさに嵌まり込んでいると判断できよう。
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成果主義も、市民的自由権も、精神医学も、罪や悪や無知を脱せない人たちの生活のためです。賢い人は、そこまで現実的な報いを必要としません。現実的な報いしか望みの持てない人たちのために、さまざまな施策が認められているこの社会を、喜ぶべき人は喜ぶべきであり、悲しむ人は憐れむでしょう。
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ビジネスで大事なのは、その商売がまっとうかどうかということだけで、儲かることでない。まっとうな商売ははじめから儲かるとも限らないが、道理を逸れて儲けたお金はすぐに流れ出て行くので、まっとうに得たお金だけが集まり、長いあいだ増えていき、結局、思うだけ残せるからである。
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悲観は実現しないと知ろう。例えば、いずれ脳に深刻な衰えを負うと危惧するとする。その時には、若いころ読み覚えた歌や詩句、盛んなころに理解した哲学の法則を、思い出し、自分を救い慰めることと思う。備えて多くの読書によって少しでも記憶に培っておきたいと思うなら、脳は衰えるのを止め、諦めてまた伸び続けることを選ばざるを得なくなる。こうして脳は再び自分で自分を養い始める。
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わたしが生まれて以降、日本はわりと良く回っているが、経済は良くない。わたしが生まれる前の商売が受け入れられすぎたために、日本人の労働意義を自分たちで騙してしまった、と思うことがある。この30年で失われた富は、30年あまり前から集めた泡銭となって身に付かなかったのだとしたら、良いものも悪くしてしまうほど受けようとしないで、抑えたり減らして整える流行が必然に見えてくる。
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人と付き合うことに、快楽はない。むしろ、自分を戒め、学ぶための修行だと心得た。楽しさや喜びを得たいとは、まず考えないようにした。
常に楽しい生き方を捨てることを教えてくれた人が、わたしの人付き合いを楽にし、一人でいても人と話しても楽しめるようにしてくれた。
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わたしは、恐縮されるのが本当に嫌だったのだが、恐縮するのも相手の気持ちなのだから、わたしがそれを受け取ったり、反応しようとしなくても、相手の思うようにさせておこうと考え直した。敬意を表されるのは嫌だが、軽蔑されるよりはまだ良い。どちらも距離を離すが、好意の量には歴然とした差がある。
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文字を読んだり書いたり、解釈を考えているときが一番楽しい。
何をしてもなんの実感も得られない日々が続いた。箴言に悔いの涙が流れる時が唯一の楽しみだった。弛んだ精神には何も与えられない。自由意志は、あるかないか、ではなく、持たなくてはならない。持つまで己を虚しくしなくてはならない…
こうして、文字を自由に読んだり書いたり、解釈を自由に考えているときが一番自由で楽しくなった。
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エデンの園での出来事からしても、男と女は、成り立ちから異なる。とても人間として同じではない。男にしかわからない心理があるし、男には見えない女の気持ちの動きがある。男女平等は、機会均等や優劣撤廃などの次元の話であって、同じ人間だとの前提であると読むと、全てを誤ってしまう。
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もし自分を理解しきったなら、それは人間状態の終わりである。ただ、それは確かに、同時に人間理解の始まりでもある。人は終わったものからしか始められない。終わったものが多いほど、多くのことをもっと簡単に始められる。
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通勤電車で見かける、眉間に皺を寄せて目を閉じている男性。己と闘っている最中、忍耐する能力の証。とてもかっこよい。
腹が出ているのは、大抵は、人付き合いを良くしているためで、医師や親族から充分に非難され、行く末までも覚悟しつつやっているのだから、責めの眼を投げるよりも、救いの手を差し伸べるべきである。
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人の魅力。ビジネスでは結果であろう。そうではなく、今何を考えていて、何を考えてきた人であるか、が結果の全てである。これを見れば、結果の質は人柄に比例していることが容易にわかる。
世の標準や普通なんてどこにもない。今の持ち物で気持ち良く見せる術を考えたい。わたしがどんな人に見られたいかよりも、周囲の人の1人として彼らの魅力を阻害しない服装を考えたい。
身の姿勢、はっきりした言葉遣い、制欲。考える基本。
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充欲は全て無駄だった。野心は危険だったが、満足に達成した今は、己を虚しくするのに役立っている。
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どんな科学も価値体系にはなり得ない。
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情報が出尽くして知識に価値が無くなったと心配する必要はない。考えを生み出すだけが知識の価値でなく、知識は、それを持ち、それに基づいて行動するためにある。ゆえに知識には正しさが求められ、行動する環境が変われば、知識を変容させるための情報が必要になる。
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社会とは、信仰のない人が善く生きるために設えられた迷宮である。
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自分と闘う上での勘所は、高所見物しないことである。あの人をそうだと思ったのなら、必ず、自分はその1人である。また、こう思われているのだろうなと思うなら、そう思って行け。
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何事も、自分で気をつけるのではなく、神に懲らしめられ、打ち砕かれなくては、本当の意味で自由にはなれない。それゆえ、神を畏れるのだ、喜びを望んで。
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頭は愚かなので論理で導いてやる必要がある。大切なのは心である。
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才能とは世に勝利するものであるが、どのくらい自己を滅却したか、すなわち、どれほど自分が勝者でないか、という度合を成立させる力能でもある。そして、自分が敗礼崇拝するところのものに捧げる意志に、才能が具体的に現れるのである。自己を諦め、絶望を義務としたゲーテは、それゆえ偉大な才能を示した。
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産業に身の全てを滅却奉仕したために、世界に冠たる績果を残したが、これは単に産業経済を国挙団結して神と崇めたために過ぎないのであり、その信仰が泡沫の如きものと知れた後は、信ずるところを失った大勢は、人心の理として自然と凋萎落魄するほかなかったのである。産業経済は、神とするには自分と関係が薄すぎて、欲が叶って寵愛されたと思っても、いずれ近いうちには裏切られたとの思いにしかならない。産業経済の規模で勝負するのでなく、産業経済の目的に適う行動で経済活動するのが賢明であり、外部や他人でなく己と闘うほど内実を得る。
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流行がこれだけ入れ替わるのは、信ずるものがないからである。信ずるところのものを知らないか、信じることを知らない若者もあるからこそ、流行は移り変わり、流行から離れ去る者もいつの時代も変わらず多くいる。
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論の生ずるところは、精神であって頭脳でない。頭脳のみで組み立てられたものは、いかに精巧に捻り出されたものであっても論理的な組み立てに過ぎず、新規性を持たないであろう。しかるに、精神を受けた者は、みなおしなべて、頭脳の程度や種類を問わず、論を生む者である。
市民社会はこのような論を生む市民で構成されることが理想であった。もし、大方の各々に精神がなく、既存の論の論理のみを抜き出して組み立て直すだけで、それが停滞凋落の大意に違いないなら、論理的思考なる方法論を信奉するばかりで壮年になるのでなく、思考は正しくさせるために是非とも論理に従うべきなのだから、その導く先が与えられなくては、または導く中で主あるいは師として共伴する存在がなくては、迷路のように困難を極めるに相違ない。論理の界隈には行き止まりが多いからである。
つまり、迷路から飛び立ちそれを俯瞰し、または設計上の機構を示すことで地下の根幹を掘り辿るが如き先達が、今や必須と言えるのである。弟子は師を超える必要はなく、師に近づいて師になるのだから、おのずと弟子は己を滅却消亡しなくてはならないが、しかしそれこそ愚かな独狼となる道から岐れた道なのだ。この道の入口に至った者は、近く師から精神を受け継ぐが、反対に、独狼の道を突走する者は、自分で精神を捏造するほか方法を知らず、模造された精神しか知らず、論を持たない者となる。
なお、論は言葉の量によらない。例えば、そう多くない言葉数で場を和ませ、場を進める人は、それで高い論の才能を有する。反対に、冗舌に語るわりに、場を混乱させ、困惑と背疑に包ませ、配慮の何も打ち消すような者は、論をまだ持たない者である。
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純粋な観念の世界に我を投じては、壮年期を迎えるころに自害しがちであるから、自己の滅却、自分の敗北は、同時に心の獲得でなくてはならず、全ての観念ないし知識の心への移行が同時に起こるのでなくてはならない。例えば、定言命法について、聞く側は、経験がなく理解に難いと行為を命じられているように読むものだが、言い述べる側に命令の意図はなく、むしろ、人間としてそうであってほしいという理想ないし願い、いわゆる老婆心とも通じる思いを意図した修辞であるにすぎない。いわば、人間としてそうでなくてはあなたは悲惨なままであろう、という経験的法則から命法は表される。
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ここまで成し得たならば、この時代は生きるに易い、という目安線がある。生活に必要で物理的に不可能なものはそう存在せず、またそれを獲得ないし利用することも難しくない時代ならではであるが。
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人は、礼のない頃には、満足しないから考える。しかし、一度礼を心得るや、満足するために考える。人は、答えを求めて考えるうちは満足しない。答えがないことを十分に弁えてから、人は答えを出していくよう考えるのである。
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思考を極端に単純にできた人は、それだけ幸福の確度が強かったのだ。その単純な確証が転換してからも、曖昧模糊とした混沌を、常に明確な思考を走らせることで幸福な航海を自由に楽しめたのだから。
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もし、ある人の信じる価値を否定しなくてはならないなら、その価値が悪でなくてはならない。悪であれば、諭し導いてやるのは神のみむねに適うことだ。また、たとえ否定すべきと思われる時であっても、悪でないのなら、否定することのほうが悪である。そうならばなおさら、われわれは人の信じるところについて、寛容にならなくてはならない。
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雑多な情報が人を幸せにしたことはない。雑多すぎるなら、まず自ら整理しなくてはならない。生成知能は、知識を整えてくれるという点で、ある種の人を幸せにするかもしれない。しかし、長い目で見れば、考えるという、知識を自ら整える方法を人から忘れさせるかも知れず、そうなれば整える方法に無知であるという深刻な不幸を生きなくてはならない人が多く現れてしまいかねない。
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ある命題定義に基づいて自分を徹底的に分析し、詩的に哲学的に純粋正直に書き上げた自分についての文章を、救われて心を得た後、恰も第三者が客観的に見て書いたかのように、語尾や態などを書き換えて、自分を分析した内容を人間精神の哲学に整えたのが、彼の打ち立てた作文方法である。自己の気持ちの動きへの慎重な注意、観念的思考の才能、長く深刻な悔い改め、純粋で強靭な誠実さ、そして何より、自分を愛することが全くできないことを深い罪として引き受け続けた正直さは、彼に帰属してよい特質と思う。
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終えられることをそうでないことから峻別し、それを実際に終えた人は、その後の人生が変化に富む。終いには全ての物事を終え、その全てを富ませる。
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自然が大好き、という人は古代でも多数派ではなかった。食糧を獲得する場所、天候気象を恐れる対象、敵が多く住む環境でしかないからだ。だから、現代において自然へ行くことを求めるのは、気晴らしないしストレス緩和を、情報コンテンツで補いすぎないためである。情報コンテンツで求めていることが、自然にも同様かそれ以上に求められるものだったのである。古代でも人は人と生きたのであり、自然の中に孤立して生きようと思うことなど稀だったのだろうから。
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詩なんてものは、やはり絶望の産物です。なぜって、詩を必要とするのは、絶望の中にある人だけであるし、詩の主題は、絶望の宣言か、絶望の素描か、絶望の終焉であると相場は決まっているのですから。絶望から完全に救われた詩人の詩は、すでに歌になって歌えるようになっているものです。
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現代科学文明、特に情報通信技術の作り出した生活、労働においては、自分の思いを表すことで社会を良くしようとする。理解を人に求める。しかし、人がそんなにあらゆる人を理解するほどの力も暇もあるはずがない。そして、理解してほしいという思いは際限ない欲望になりうる。人を捕る漁師は、夢遊的現実でなく、人を冷静に見て取る。
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虚業も確かにお金の回る業種になった。だが、いつまで経っても虚しいものを作る業界であることに変わりない。汗も足も使えず、労働から得られるはずのものが何もない。新しいものなどないはずなのに、新しく見せているせいで、視力が弱くなった人が増えてしまった。ゼロから作る、とは、ゼロから作ったように見せるだけのことで、無から有を生んだように見せた人が偉大だと言われるだけだ。なぜなら、全く無から生み出した人は、歴史を見ても1人もおらず、皆、過去の業績を多かれ少なかれ利用するか基づいて、少し加えただけだからである。
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科学はさまざまな感覚で理解できる側面がある。力や熱の触覚的な理解、面や粒子などの視覚的な理解、時間や空間の音楽的な理解。だから、それらを見せる手段を問わない。数式で表れているから、計算できるし、理性で感覚を耕していける。
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数式は数学の根拠であり、計算は数学の手段である。だが、数学にはまず目的となる思想があり、その形式は問われない。それどころか、その端緒は個人的体験として、本人を除き永久に秘密にされる。
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見えないものを見えるように、わからないことをわかったかのようにすることは、本来は狂気に属することかもしれない、人が人の立てた方法でそれを成すのでしかないから。
数学の能力があるのに、神学においてはただ祈ることを何より大切だとしていた人がいた。己の知性より優先すべきことをよく弁えていたのだろう。
私は学問、特に哲学や数学に関して、大きな誤解をしていた。磁気で狂れた羅針盤のようだった。しかし、地磁気の循環構造を理解するようになってから、数学もわたしが生きるためにあると知り、封印を決めたら、旋風も凪いだ。
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神が不思議なのは、人に探究をゆるし、研究の素晴らしさを存分に体験させ、解答さえ惜しげもなく与えたことだ。そしてしかし、それを当然公表してはならないことを私に知らしめることによって、私の人間性に欠如していたことを補おうとしてくださったことだ。私はあまりに純粋な研究心に傾きすぎていて、人として当然備えているべきものを持ち合わせていなかったから。
神は求めたことを与えることを目的としない。それよりも、私が完全な人間になることを望んでおられることは明らかなように思われる。私は残りの人生で神に応えたいと思う。
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私が人に自分のことをあまり話さないのは、私がこの問題に取り組んでいることを知られたくないからです。それはなぜかといえば、この問題に取り組むことが社会に反することだというか、解決しても社会に良い影響が及ぶとは限らないからです。悪用された場合、想定される最悪のケースでは、私は歴史に汚名を残すことになります。あるいは、何らかの進捗を公表した場合、命を狙われた状態で生きざるを得ません。これはあながち妄想でもなく、人を信用していないというのでもなく、私の中に時折生じる欲を振り返ってみても、私は私を信用していないし、どんな人もそうなのだろうと思う節があります。だから私は礼拝に出ているのです。
総じて私は今はこの問題に取り組んだことを後悔もしています。私の人生はこの問題に挑戦したことによって大きく特徴づけられ、今の私を理解するには切っても切れなくなっているのですが、以上の理由でこの問題に取り組んでいることを知られたくないために、私は私を説明する核となることを誰にも話さないままほとんど孤独で楽しみも喜びも少ない人生をこの世では送るほかないわけです。最終的に満足できる程度まで研究は進めていません。できる可能性はありますが、止めています。数学史に名前を残したいわけでは今はもうないので、中途半端な状態でやめておくのがいいと秘かに思っています。そうすれば誰からも何の異論なく、私は静かに人々の心から忘れられることができるからです。
残りの人生をどうするか決めたので、後はそのつもりで時宜を見て動くだけである。やることはあらかじめ決まっているので、何をしないべきかも決まってくる。今までやってきたことがいかに一般には好ましいことであろうと、私の中での評価は定まっている。人間の評価、この世での評価で動く、それが社会だと思う。神のもとで結論した評価こそ、信じるに足る。
こうしてわたしは、明るみに出す時を神に託した。ゴールドベルク変奏曲のアリアをまた違った意味で聞くようになった朝であった。
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数学は神の言語だと言われる。私は数学を通してこの世の人生を導かれた。初めから決まっていたのだ。私がその問題に取り組む決意をしたこと、その問題に解決の糸口を与えられたこと、全て、神が決めていたのだ。この過程も、その結末も、この世でどのようになろうとも、その道、真理を知りそれを守る道を生きられたことは、人間にとって最も善い生き方のひとつであると、私は確実に証明することができる。
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眼に見える、知覚できる、観測できるものだけが存在ではないと思う。私は宇宙の浮かぶ空間は無限だと考えているが、その中か外側かはわからないが神はいると思う。神自体がもし見えるのなら、高々ひとつの宇宙かそれより少し大きいくらいの大きさである気がするのだが、無限の愛を注ぐところから大きさのない無限に広がった存在だとも考えられる。
とにかく、私は自然即神とも考えないし、無神論などもってのほか、神は空間にあまねくいると思う。復活したイエスが人間には見えないように、神も人間には見えない。人間は死ぬと誰にも見えなくなるが、人間に見えないだけで、死者もイエスも神も人格的に交流できる 「次元」 があるのだと思う。その次元の空間には、天国や地獄といった価値の区別もあるだろう。
観測しなくても存在すると仮定した時の、その存在の形式を問いたい。
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力で時間は歪む。特に情報に溢れた時間は。補足すれば、時間とは空間的な形態をもっていて、面であったりその面から構成される移動する立体であったりする。目には見えないが計算して可視化できる代物である。
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人間の認知がその粗さなのか、神の設計がその単純さを持つのか、現実は捉えきれないのはいつの時代も同じだ。完璧な模型でなくても不完全な模型で良いわけだ。どんな模型にも思いつく意義やつくる意義がある。たとえそれが現実を反映できないような粗いものであっても、現実の何らかの側面を表しているどころか、意外な現実の説明に役立つことが本当にしばしばある。模型作ろう。
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光に照らされると、陰も見えるものです。陰が見えなくなるには、光を避けるか、存在を消さねばなりません。つまり、生きる限り、陰を見ることは、何も悪いことではなく自然なことです。光も陰も見えない人生は、意味のない味気ないものです。
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思想が違う、ならば感じ取るだけでは誠実ではない。拒否と対立の姿勢を取るしかなくなるから。ゆえに、具体的にどの点がどのように違うのか、それはどれくらいの違いであるのか、判断を見極めていかないと。それがどうせ大した違いにはならない、というところまで行けば、それは愛に近づいたことになるだろう。
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人は多すぎるのを不快に感じるのに、ややもすると、多くすることを求めがちだ。多く残るのが嫌なのだろうか、ならば多く得て多く使い切るのが、快い物の使いようである。または、多く残らないようにあらかじめ多く得ないことにするのも、快く物と付き合える仕方だ。
使用期間が短かった物を無駄と見做す、無駄とはそれだけの概念であろう。それは自分の生活にとって過剰だったのだ。無くたってよかったのだ。あるいは、削ぎ落とすべき余計なものを無駄と言うだけだ。無くたっていいものは無い方がいい、という思想だ。多すぎるから無駄と見做すようになるのだ。
無駄とは意味に基準を設けて初めて発生する後付けの人造概念である。多すぎるから減らす、それが快い、という時代の要請からきている面はあるだろう。
有用な、効率的な、美しい、快い、意味基準にとっては、無駄という観念が存在し得る。基準を満たさない物を排除するのだから。でも、仮に、心を映す、用途がある、経済的に、という理由で見ると、やはり全ての物に意味があり、その物がそこに使われ置かれることには妥当な理由がある。
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理由もなく、ただ憧れから清貧になろうとするべきでない。それはおそらく誤った動機からきている。理由は具体的であるほどよく、実際的であるほど継続できる。
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無駄な時間は無くたっていい、それは本当か?また、無いのにあるように見せられる物には注意せよ。借金とか。こんな考えは、現代の処世術やライフハックにすぎないのだ。なぜかって、産めよ、増えよ、地に満ちよ。なのだから。
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イエスも、全員とは付き合おうとしなかった。律法学者や立場の強い人とは、うまくやろうともしなかった。
つまり、隣人愛とは、全員とうまく付き合うことではない。自分を愛すように自分が付き合える人とだけ付き合う、それだけで十分なのだ。うまくできない人がいても、イエスに反することにはならないのだ。全員とうまくいくわけない。1人の人と常にうまくいくわけでさえないのだから。
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人の、信仰の敬虔さや人格の高潔さを間近に見て、敬服する気持ちを何と言うのだろう。それはずっと後になって苦しめる記憶になる、ということを書きたいのだが、言葉を知らない。無力、に近い意味だ。
美は信仰を宥める。どんな作品も、信仰をある視点で切り取った代用にすぎない。神さまはそんなふうには言っていない。自分で美を作れば、自分の信仰の限界と性質を知れる。
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祈ることをやめ、神に縋らず自分の意志で行動を決め、本の内容は著者のもので自分のこととして考えず、何事も少しだけにし、したくないことはしない。そうすると自分がこの地上で生き始めていると感じられる。
すなわち、自分と全く違う存在を信じられず、自分をも信じられなくなる。そうやって生きるのがなぜ善いことなのかと問わざるを得なくなるのだから。
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最高の価値の無価値化。この世にあるもの全てには価値をないと見ること。人が作ったものに価値はない。経済的価値、道具的価値、そういった実用的な価値、その尺度でしか測れない価値でしかない。
価値。もしこの世に神が造ったものしかなければ、素晴らしい。人間が組み替えて作りすぎた世紀、何か失われても悲しくない。神が造ったものは、神がまた生み出すだろう。人間にわからない意図で。
ええ、いずれも、現実に行動してはいけません。頭の中での世界に押し留めておくべきです。そうしなくては、重力が逆二乗則で地上の恩寵を奪い去ります。
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もし、悪の思いを抱いたことがない人がいたら、その人は自分を愛せていないことだろう。悪の思いは、自分に反省を促すので、自己肯定、すなわり自分を愛することにつながる。悪の思いを行動に移せば、社会的否定および神の制裁が待っているので、主は赦した。主の愛とは、自己肯定と悪、そして悪の思いのみの清算、その繰り返しである。
「わたしは正しく生きられなかった。生きるなら、きよく生きたい。」
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人の世の賢さとは、自分で賢くなろうとした結果の賢さだ。神によって賢明のうちに守られている賢さなのではない。人が自分で賢くなることはできない。
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わたしは聖書から学んだ。という人の中には、すぐれた芸術に触れる機会や感性を重んじなかった人がいる。完璧でないから幸せを感じられる。幸せはひびや欠けや傷から生まれる。もし完璧な人がいるとしたら、その人は幸せとは無縁に生きているだろう。私の悲しみに比べたら、あなたの辛さはかわいそうだし、あなたの罪はゆるせる。きっとイエスキリストも、その人も、私のことをそう見ている。
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考えて確実にわかったと思えることは、人生に起こった出来事の意味である。だから、それ以外のことで定理のように成り立つ命題を定義できたとしたら、それは唯一の真理であるはずがない、単に不十分な仮定か部分的な普遍性だろう。
もし人生に意味は何もないと信じる人がいるなら、なるほどすべては無であるという世界線を持っていると感じられるが、神は明らかに無ではない。よってその人は神を知らないか全く信じていない、つまり救われていない人だということが判明していることになる。
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パスカルにとってパンセは余生のいわば暇つぶしであったように、学問とされるものは暇つぶしのために生まれたのである。食えない作家、というのは何かが本質的ではない取り違えた概念に見える。作家という職業が成立してから発生したややこしく不利な概念ともとれる。私はそうなりたいととても思えそうもない。
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具体的に言わないというのは、発言者は何かを隠しているのであり、その隠す意図が明確であるほど意味深長な言葉として残りうる。意図が薄い場合は表現を鍛えなくてはならないが、それが将来的に裏目に出ることもありうることは覚えておいてよいと思う。総じて、意味深長な言葉とは迷惑なものであり、ミステリーのように興味を惹くためのものにすぎないが、そうとしか表現できなかった人の場合は迷惑であるとしても、事情や理由によっては大目に見なくてはならないことも多い。
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学問によって幸せが阻害される場合がある。度を超えて達成した場合のうちの一部の場合である。達成することが叶わなければ、達成した人を尊敬する念によって慰めなどが与えられ、学問によって意味や幸福を得ることが多い。また、度を超えて達成してもなお、社会的な意味で能力を買われ未来への貢献を最後まで達することを希望とし、研究を続けることで幸福を求めることができる。逆に、幸福が阻害される場合とは、有名になることによってリスクが増し、命が狙われる中を生きなくてはならなくなったり、それ以前にそのリスクをおそれて公表できずに無名の平安を選んで苦悩を共にする人生だったり、学問的業績によって社会的な事件に巻き込まれ、責任を問われたり裁判にかけられ社会から抹殺される場合である。
後者の確率群は、かなり珍しい場合と思われるが、長い間にわたって決してなくなることはなく、長きにわたり語られ人々を考えさせる内容となることが多い。これはこれで学問に対し非常な貢献をしたといえ、しばしば新たな分野がつくられる端緒となることもあるが、その当事者の真実が理解されることはほとんど期待できない。
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思想とは持たされるものだ。ペトロもユダもまさかそんな思想を持たされて生きるとは思わなかったろう。持たされた思想を発展させることでしか、思想を持つことも思想から自由になることもできない。
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神の決める余地。
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日本人の勉強熱心さは、誰かの考え方に共感したい頼りたいという依存心で、自分の生き方の更新であることが多い。外国では勉強する目的がはっきりとお金や社会改善や自己主張のためで、仕事や物を作り出し社会を変えていく力に直結している。日本人は主体性がない、その最大の原因は、信仰がないことだ。神に従うことを知らないまま、有能な人の方法を求め従っているのだ。神でなく人に従うことしか知らないのだ。
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わかりやすい話は、大抵薄っぺらな嘘だ。真理は一段深い場所にある。嘘の裏にある深いところまで行かなくては、何を聞いても表面的に騙されて終わる。神の言葉は残酷に使うこともできる。人を傷つけることもできる。希望をなくさせられることもある。それゆえ、私の半生において、正しい人は教会にしかいなかった。私は教会で正しいという概念を初めて教わった。
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本当に振り返るべきことは、数十年に足らない自分の半生ではない。そんな短い経験から自分の未来の方向を制限するのか。人が本当に振り返るべきことは、過去の時代の偉大な出来事だ。そうすれば、自分でもとらえられなかった人の性質が自分を大きく広げるだろう。
信仰は自己との闘いだ、そう言った過去の人は正しい。安心と平穏を守るために自己と格闘しなくてはならない。神に対して怒ったり、イエスに対し怒ったりすることは、自分軸を確立するためのひとつの方法だ。神もイエスも、いくら怒りをぶつけても、絶望しても、いつでも許して救ってくれることだろう。祈りが平和を与えてくれるだろう。
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仏教は苦しみたい人の、神道は拝みたい人の、儒教は倣いたい人のためのものだ。彼らを排斥してはならない。彼らにはそれしかないのだから。
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なぜ十二弟子はあんなメンバーだったか。聖書を知らない人だったからだ。聖書を知る役人や街の人は、イエスを危険視した。聖書を知るイエスは、自分が磔にされて世を去ることを知っていたので、聖書を少しも知らない人たちを弟子に選んだのだ。
迫害する者とは、イエス自身だ。イエスは説教中、周囲の人に危険視された。つまり、周囲の人を迫害していた。迫害する者のために祈れとは、私イエスのために祈ってくださいという意味だ。汝の敵というのも、あなたがたの敵イエスという意味だ。イエスは万人の敵なのだ。だからイエスを愛すのだ。そのため、イエスの昇天後、イエスの意図とは裏腹に、イエスとその言葉を敵として忌み嫌う人は現れなかった。
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芸術における作為は、偶像と根源的に同じ動機だと思う。人間の抱くイメージを重視するのではなく、神の造作をそのまま切り取るくらいに考えたほうが、表現として優れたものができる。ファッションも、ウェブデザインも、写真でも。心に留めたい。
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主こそ正しい存在であるとは、あの人が正しいとは限らない、という世界だろうか。そうならば、どの人も正しいとは限らないから相互に監視しなくてはならなくなる。正しくあることができない罪人が、主から正しいとされることが恵みである。私が正しくあるのではなく、主から正しいとされる。私など正しくあれるはずもない。自分の力だけで正しくあろうとすることを主も求めていないだろう。批判とは全てイエスキリストと比べてなされる。イエスキリストに比べてどのくらい本当にイエスらしいかが批判の焦点である。
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神は理解を超えているとよく言われるけど、人間や自然も理解を超えていると思う。神がつくったものはそうそう理解することができない。というか、人の理解力なんて高が知れていると思うほうが神が人をつくった意図に近い気がする。
単純にいいことだ思っていたことが、そうでもないと知らしめることで、バランスを取れるよう整えてくださる。人の抱きやすい良いイメージが、その人自身の都合の良い思いにすぎないことを気づかせる。そうして人は神に従いはじめる。
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自分の思いなんて、落ち着いて考えてみれば、よくわからなくなるものです。正しいと感じるのはいっときです。神の望むに任せて、自分自身の意志を捨て、みこころに従って生きましょう、それが今しばらくは楽しくなくてもです。
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私の思考や言葉から、私を優れた信仰の持ち主だと判断するのは誤りです。私はただ手掛かりを多く残しただけです。私の知る人で私より優れた人を私は教会で何人も見てきましたが、必ずしも言葉や思考を多く残した人ではありませんでした。人の信仰を比べられないように、人の評価も人が正しく下せるものではありません。誰が秤の両皿に人の全体を等しく載せることができますか。私も、均等に釣り合うことを期待してはいますが、本当のところは成せるものではありません。
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人が友のため命を棄てるほどの愛。これがイエスキリストの愛です。わたしは主に従います。神に栄光あれ。
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不幸になるのは自由だが、幸福を侵害するのは責任が生じる。犯した者には、償う手段が与えられなくては、幸福にはなれない。国が犯罪者の幸福を侵害することになりかねない。裁判では、犯罪者にとっての償いの手段のために、正しい量の刑罰が与えられるべきである。
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本気で真剣な話しは、人を本気で真剣に疲れさせるので、その人から疎まれても不思議はない。というのも、人はそこまで深く考えていないようでいて、考えている人よりもすでに深くわかっており多様に実践しているからだ。だから教える側が、この人たちはわかっていない、という姿勢をとることは、笑うべき姿になっていることがしばしばある。本人が気づいていない場合は重症で、陰でその夜でも、各宅室で笑いを堪えられているだろう。この想像を、教える人間は心すべきである。自身の名誉のためである。
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やはり、人は、自分の偏見を自身に向けることによって、苦悩を深めていくのだ。逮捕歴とか障がいとか、貧困や離婚や人種など、それらの人たちに意識しているかどうかにかかわらず向けているその人自身の眼が、自分に該当した場合に自身に向けられる時、その人は深刻に苦しむ。結局、単純な結末は、その人自身のその偏見を、完全に解消することである。その偏見が消えた時、わたしもそうなのよ、わたしもそうだったのよ、という、経験談に変わる。すると、生きやすくなるし、そのほかの偏見もどんどん解消していき、おそらく生き方自体も変わっていることだろう。
そういうわけで苦悩は人生の糧になるのだが、もしその偏見が全くない人間性に憧れるとすれば、それは可能ではあるがなぜそうでありたかったと欲するのか。人生に苦悩がない人間性は、偏見がない。そんなことが初めから可能だとはとても思えない。自分を掘り出していけば、偏見の一つや二つ見つかるだろう。要するに、偏見を責めるのは、人に厳しく自身を顧みないという点で、ナイーブであるかナンセンスであり、いずれ自身を苦悩させるきっかけになる可能性に少しも思い至っていない。このように考えない人が今の多数派であるが。
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わたしが抑圧できるのは、人は誰でも多かれ少なかれそうだろう、と思えるからだ。理性や倫理観での抑制の箍が外れると、わたしのこの仮定が成り立たない人にわたしがもし遭遇した場合、わたしはおそらく衝動でその人を殺害している可能性もなくはない。そのため、わたしは人と共有しています、と身を守るためにお世辞を言う必要がある。また、自己を開披しなくてはならない時、公衆の面前でそれを行うことは、おそらくわたしの他の人の衝動も考え併せると、誰かを心理的ないし物理的に傷つける場面に変わりうることを、わたしは心に覚えなくてはならない。わたし自身が引き起こしたなら、わたしは罪が増し、耐えられず命を絶つこともありうるから、わたしは基本的に、わたしを隠し通さなくてはならないし、誰かを深く知ろうと思うことを細心の注意を以て慎まなくてはならない。日記や個人内執筆によって、あるいは、文学や哲学の本によって、我慢すべきだ。忍耐の一環であることは明らかだ。
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癖になる、とは、わたしの場合、良い意味でない。そもそも癖は病垂であるように、良い意味でない。そのようなわけでも、癖になることはよろしくない。ある人の言葉遣いが癖になったことがある。聞いた側は、病みつきになる、のように好意として受け取ったようだったが、わたしには明らかな嫌悪であり、それが意識に固着し、習慣化しかねないほどの、嫌悪を意味しているとは、なかなか通じないゆえに、わたしはこの言葉では悪意を与えてこなかったろうと思う。わたしとしては、一刻も早く忘れたい、という決定打であり、結局その人とは完全に縁を切らせてもらい、二度と会いたくない。
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この世で大切なことは、人間はみな欠点があり不完全だということだ。学問をする上でも、政治に参画するにも。もし完全に見える人がいたら、それはあなたがまだ成長する途上にあるということで、次第に見えてきた欠点は、それまで見えていなかったあなた自身の欠点に似ているだろう。
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あらかじめ細かく砕けた氷。夏場は特に早く冷えると思うが、飲みにくさはある。
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クリエイティブこそ、実は機械的で、論理労働にすぎない。単純作業の方が、本当は、人間にしかできない。すなわち、人のために汗をかく喜び。
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PDCAを早く回すために、なぜそんなにも試すのか。早く回すためいろいろ試して変えてはまた試し、何か正解があってそれに近づけていくだけのことなのに、PDCAの早回しに慣れてしまったことで自分から失われたものを、多くの人は気づくこともない。
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やはり、違うのです。人と人は。同じなわけないでしょう。あの人の言葉、わたしと全く同じこと考えている、と感じても、ずっとその2人が同じこと考えていくと思いますか。でも、共通している面は、いくつもある。それはすでに知られているし、学校でも習う。全く同じ2人、というのは、いない。その錯覚から全てが生まれるとしても。
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初対面の強烈な印象、圧倒的な上品さ、その後に疑いが生じ、考えさせられ、避けようとさえ思った人ほど、本物の一流の人だ。結局、わたしはこの本物から、すべてを教わり、そうでない人たちに教えては、適宜感謝される人生だった。
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芥川龍之介がベートーベンを天才だと評価しなかった理由について。芥川はベートーベンを危険だと感じていたのではないか。すなわち、音楽の素晴らしいことは重々承知していたが、その上で、彼の強い浪漫派の特徴が、芥川の心に危険な感情を滾らせたのでは。古典的なものを好まない人の傾向でもあるだろう。
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ウェブデザインを作るにはメンバーの感覚をすり合わせなくてはならないのだが、私は人の感覚に逆らうことはできない。その人の感覚だから。私が変だと思っても、それは私の感覚にすぎないから、私は何も言えない。私は自分の感覚が否定されるのが何よりも辛い。私の何もかもが間違っていると感じる。私の生きてきた何もかもが。だから、私が人の感覚に何も言えないのは、私を守って逃げているだけで、人の感覚を尊重しようとは少しも考えていない。それで人が自分を尊重してくれたと思っても、その気持ちを私は何も訂正しない。要するに私は偽善者なのだ。
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わかれば単純、わかるまでが複雑。でも、わかる保証はない。つまり、単純になる保証がない。単純になると信じて考えるが、そう簡単にはいかない問題も、どの人にもひとつやふたつは存在するものだ。
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学問によって賢明にはなれない。学問した経験を何らかの反省を通して吟味しなくては賢明にはならない。大学の卒業式には、入学したときから賢明な人たちと、学問によって失敗する可能性を抱えた人たちとが、恩師や仲間との別れで胸中をいっぱいにしている。
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それがどういう意味になるかわかって言ってます?と人に言う勇気はない。なぜなら、この言葉を私自身に向けたとき、私が自信を持ってわかると言えないからだ。つまりこの言葉は単なる脅迫のようなものであり、互いに無限の葛藤を惹き起こすだけの意味のない言葉にすぎないとわかっているからだ。
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胸襟を開き腹を割って話すと、打ち解けられる親しみより、面倒くささが先立つので、本音で語る人は面倒な人という印象になる。
見えるものや言葉で伝えられることで大事なものってあまりない。わかったと思うとつまらなくなって飽きちゃうから。だから、言葉にならないもの、かつ、見えないことが、常に確保できるようによく考えて、生きている。
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単純さと安易さが同じ意味と思っているうちは、まだ苦労しなくてはならない。生きるのは簡単にすることができるが、善く生きるには簡単な道を通ってはいられない。生きるのは大変だ、苦労の連続だ、と日々言っていた人のほうが、簡単な考えを信条のようにして楽しく生きた人より、結果的に実を結んで人生を終えた例を私は何度も見た。
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これしか楽しみがないのか、と軽蔑してはならない。かわいそうであるか、敬うべき信仰のためであるから。
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通貨の起源、交換の起源は、貝殻や金属が美しかったかららしい。象徴的価値、美しいもののために大事な物を差し出す。交換してと申し出る。
美しいもののために生きる。戦争できるのは、勝利が美しく思われるからだ。領土が広がり国がますます栄えより大きな国家になる未来が美しく思えるからだ。なぜなら、人間は悲惨であり、これを知らない人は、物のうちの美しいものに負けてしまうほどの価値しか、他人に認められないからだろう。
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私の生活は表現によって成り立っているけど、私自身が表現したいという気持ちは薄い。自分を定義し肯定するためだけに私は表現している。表現を継続的に行っている人は立派に見える。表現にはすごいと思うものもある。でも、できるだけ表現に出合わずに静かに生きていたい。私は本心では、表現する人になりたくない。
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自衛隊。この世で最も頭が下がる職業。
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これから日本では、欧米に従う道よりも、欧米とは違う道を志向する人が多くなる。どこかの国がとるような道ではなく、独自の道を発信する方が選ばれる。この方向は、学ぶ人であるからこそ進める道だ。1人1人で日本らしく考えることが各人に求められる。
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日本の製品サービスは品質が高いので、一度買うと長い間使おうと思える。つまり、一度買ってしまうともう買い替えたくなくなる。これ以上何を豊かにするのという消費低迷の遠因でもあるだろう。
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大金を得ても、何に使ったらいいのと悩んでしまう。私はそんな性格なので、私は今よりも稼ごうとはしない。少し余らせるくらいまで減らすために何に使ってやろうかと思案して生きている。
経済的豊かさを肯定できないのは、若いならよろしくないらしい。私は幼い頃から肯定できていない。生涯を貧しいままで終えても何も気づかないだろう。
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メガテックが、人類の技術開発を加速し、イノベーションを生むための合理的な組織になっている。でも、私はイノベーションを早く達成しなくていいと思っている。産業や雇用が続くには、もっとゆっくり開発するべきだと思うし、世界的に減速したっていいと思っている。
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私の受け取った内容を明確化し、また再び話を受け取り、明確化する。これを通じて認識を整理し知識にしてきた。一見受動的だが、先人から継承できる方法だ。そうやって形作っていくほうが、一から自分で考え出そうとするより良い。整理した内容は自分で考え出すので、整理に自分らしい価値が乗る。その価値こそ、私が人に伝えられる価値である。
受け取ってもらえなくても悩むことではないのは重要な姿勢である。意図を修正しようとすることはあるかもしれないが、話が理解されている場合の方が珍しい。人は内容を聞くよりも、もっと外側に見える性質として聞いている。難しい話とは内容の理解を求める話だ。誤解され躱され反発されるほうが普通だと思うべきだ。
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失敗しないことで、どれほど人生をつまらなくしているかということ。
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平安時代といえど平安ではなかったそうだが、貴族は今の1万分の1以下の情報の中で政治や文化を考えて生き、平民も農作業などの労働を通して自然や村家族に囲まれて暮らしていた、そう想像する。
現代人は当時の貴族より物質や情報で溢れてしまっており、精神性が台無しになるほど変わってしまったが、今でもその当時の心を取り戻すことはできるだろう。現代人が失った貴重な持ち物のはずである。
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騒擾より静寂の中にこそ幸福が生まれ出るのは明らかなのに、人はわざわざ喧騒の中に己の身を置く。自らを振り返る習慣を忘れ、それができなくなると、世界を軽快に便利にするほかに考えられなくなり、悲しく暗く惨めな人の本性に耐えられなくなる。その本性を見ずに済ませられることが文明の目的だったかのように。
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いくら恵まれていても、自分を甘い世界に置いていては、よく生きることは不可能だ。自分に厳しくしただけ、人は自由になれるし、人に自由を与えられる。
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好きなことを本業にするのはひとつの方法に過ぎない。本業で生活を安定させながら仕事ではない形でやりたいことをできるのなら、それで生き方として立派に成立している。本業が自分の価値観に完全には合わないからといって、それを辞めるだけが正しい方法ではない。やりたいことを本業にして生きたくない思いもある。やりたい思いが満たされればそれでやれていると思えば、やりたいことで稼いで生きなくても満足する。ゆえに、やりたいことでは稼がず、生業を別に持ち、生活を安定させながら、自分の幸福や満足を追求する方向を、私は選びたい。自分の名前を世に売りたくないのだ。
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価値観でつながることは素晴らしい考え方だけど、つながっただけ有名にならなくてはならない。私は人に知られたくない。知られないまま暮らしたい。できるだけ誰にも知られないまま生涯を終えたい。誰かに価値観を伝えることは嫌いなことではないし、それなしでは人に役立つことはできないとは思うけど、着実な生活をベースに、できることは装飾だと思って積み重ねたい。装飾とはなくても構わないという意味、生きる上での本質的必要ではないということ。
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世界史をやっていると、各国の歴史で世界が凸凹して見える。今グローバリゼーションで地球世界の単一のっぺり世界観だけど、ベールを剥いで見れば、まだ世界は今なお凸凹している。
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やり遂げても、知られなくていい。やり遂げたいと知られたいは本来、別の動機である。
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参考文献が多い方が信頼できる、という考えはこの数十年のものに過ぎない。少ない文献をどれだけ深く読んでいるかで見たほうがいい。
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自分が快適に聴ける情報源だけで時間を過ごして何か問題あるか。大いにある。そういう環境を実際に作ってみたが自分には罪悪感がある。自分と異なるものを自分の中から消そうとした結果だから。
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偉人とは、新しい豊かさを開発した人だが、万人に向いた豊かさにはなっていない。人の豊かさは節度の中にある。
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才能を見抜かれることが大事なこともあるし、才能をアピールしなくてはならないことが大事な時もある。受け入れられれば、自分の望むような位置や役割を与えられ、自由に存分に働き、生活することができる。そこまで行くのに大変なこともある。理解しようともしない人の前では、私が何者かになれるのではない。
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量で満足しないで、性質で満足せよ。満足する量よりも、満足できる性質から考えよ。
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欲しいものが、私の本当に欲しいものなのか、わからないことがある。その時は、似たものや好きな可能性のあるものを複数買っていた。でも、最近は自分がそれが欲しいとわかることが増えた。事前に調べるようになったからだ。調べられないものを買うときは、欲しいと思っているものがどのような性質を持つのか慎重に考えるようになった。どのような性質を満たせば私が欲しいと思っているものだと思うのか、考えるようになった。私が欲しいものを完全に具体的に想像することができないことを知ったのだ。欲しい性質によってものに出合うしか、欲しいものとわかることがないことを知った。つまり、調べた情報によって買い物が自分を難しく思わせる行為になっている。
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思想研究とは、軽薄に心酔した正義への永続的反省である。
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本当は、人は人を疑えない。自分自身を疑うことしかできない。自分の認識を疑うことしか。なぜなら、人は人を疑うことを通して、疑っている自分を認めるしかできず、人の中に何か確かなものを認めることがどうやってもできないからである。人を疑っている人は、自分自身を疑っているだけだと考えて良い。疑っている自分自身にまだたどり着けていないだけである。その人にとって人の存在が大きすぎるのだろう。
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自分のしたいようにできるから自由であるのではない。自分のしたことによって歪まれた人たちが仕返しせず許しているから自由なのである。自由は許し合うことの上に成り立っている。自分の権利を通すために人を許さない者は、自然に自分の自由を失うことで罰せられている。
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好きなことをして生きようと決めても。好きなことくらいひとつやふたつ与えられているのだから、自分が好きだと思える気持ちなんかよりも大事なことが生きていると出てくる。
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考えることに意味がないと思うときは、意味のないことを考えているだけだ。考えて言葉を使うことが、ほかと比べてどれだけ役立つ方法か、考えてみたらいい。
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わかりやすい話ほどわかりにくいものだ。簡単に理解できたと思って後で考えてみると、話した人の本意をほとんど誤解していたことがよくある。伝わっていなかったのだ。簡単にわかったと思った時は注意したい。本当はその人が言いたいことを何もわかっていないかもしれないではないか。
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持説にこだわりがありすぎる人には気をつけたい。どんな職業や地位にある人でも。人の意見を自説の展開のためにしか聞いていない可能性が高いからである。わたしこそ、わかってるわよ。と息巻く人ほど、そのことについて何も知らないものだ。対話を重視する人にも、持論を述べることが好きな人と、聞くほうが好きな人がいる。私は後者で、後者のような人たちだけで対話したいと思いがちだ。言いたいことを口で言いたい人ばかりではない。自分の思いを差し控えるほうがまともな言動だと、私も常々気をつけている。
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ミニマリズムの矛盾は、物がある程度たくさんないと、好きなことに資源を集中できないことだ。文学を書きたいなら、本をたくさん持っていなくては書けないし、数学を追究したいなら数学書や論文や周辺文献を漁れないとならない。あるジャンルだけ持っていても発想が広がらないこともあるだろうし。
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自分が人間関係で悩む量と、人を人間関係で悩ませる量が比例する条件は、悩みが笑いに変わった時、圧倒的に逆転して、平和な力学的距離を不動のものにしてしまう。
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「価値観の多様な選択によってだけでは何も進めないことが人間にはある」
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学問も表現も信教も、自由である意味が薄まってきてはいないか。人にその価値が信じてもらえなくなり、求められなくなってはいないか。自由であるよりも従うものであるほうが受け入れやすく、いや、従わせるよりも従ってもいいと選べるうちのひとつとしてしか、価値がすり減ってはいないか。
明らかにスマホによる変化だ。自由であることの価値とは。
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私は人といて話していると、ほぼ必ず悩まされるので、できるだけひとりで過ごすことを好む。だから誰かと一緒に何かしたいという人ではない。私のような人が全ての人に当てはまるのではないし、誰かといないと寂しいというのも私のような人には当てはまらない。私は寂しいという感情をよく知らない。
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古臭さとは、普遍的な価値への無知からくる偏見である。真に新しいものは存在しないのだから。
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女性は現実的で、男性は夢見がちなのは、性器による。女性はものをみなくてはならないし、男性は中を想像しなくてはならない。それより深いところはわからない。私は男性なので。
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ないものをあるようにしたい思いは、創造的でもあるが、欲の渇望にもなる。ないものを欲したいという思いを、あるものからあるものを生む希望に転換しなくてはならない。ふたつの欲求はバランスしなくてはならない。
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情報化の結果、なんでも身近になってきた。同時に、なんでも自分でどうにかできるようにもなってきた。だんだんと人の世話にならなくても済むようになったし、知らなかった人と知り合うようにもなってきた。遠ざけていたことが身近になったことで、世界は広くなり、世間は狭くなった。知ることも考えることも増え、悩みの種もそれを解消する知恵も増えた。そういう意味では生きやすくなった。同時に、自分の世界の隣の人の世界が知らない世界に見えてきた。知り得ない世界になってきた。関心を持つことが簡単になり、知らないでいることが難しくなった。こんなに知ってどうするのというくらい調べ、そして考えすぎるくらい考えるようになった。この先にどんな変化が起こるのだろう。それさえわくわくすることになってしまった。
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お金を感謝とともに受け取り、感謝とともに手放す、と考えた人は賢い。そうすれば、過度に欲することや恐ろしいほど失うことは起こりにくい。
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健康を失っている人やそこそこの人は知らないと思うが、健康度というのは青天井である。工夫によってどこまでも向上する。健康だと感じていても、今以上に健康になる余地が常にある。
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自分をよく見えるようにすることは、人に気持ちよく見てもらえるようにする限りにおいて、正義である。自分をよく見せようとするだけでは、人によく見てもらうことは難しい。自分は人に見せるものである。だが、人よりもよく見せようとするような比較勝負の場ではない。自分が好きで気に入っているときは、人にもそれなりに思ってもらえる。しかし、自分だけよく見られたいときは、人にそう思ってもらえることは、ないと考えたほうがいい。
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好奇心から動くと義務感がないからかどこまでも進んでしまい、結果として危うくなることも多い。若い時に苦労を買いすぎると、何を買ったのかがわかるまでどこまでも動けてしまうが、必ず高価すぎる品として質屋でも評価される品を手にしている。
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理解すれば、悪魔の手は止まり、行動が変わる。
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ラジオって密度がないところがいい。すなわち、自分で思考を手早く組み立てようとしなくても、人の思考に乗ってなぞれるから。話された思考は表せない思考より緩いものだ。
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お金に困ると、人が曲がる。お金と人の関係は探究しがいがある。
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お金を持っていた自分へ。そのたっぷりのお金を持っていて幸せですか。何に使うために持っているか、ちゃんと弁えていますか。目的なく持っているなら、それを自分の資産として守れますか。何を求めていますか。それは目に見えるものですか、それとも感覚や理性で捉えられる見えないものですか。持っていて幸せですか。幸せでなければ手放しますか。どのように手放しますか。誰かに分けてあげたい人はいますか。実際に分けてあげましたか。そのとき幸せでしたか。また分けてあげたいと思いますか。それでもまた資産を増やしたいと思いますか。何のために増やしますか。自分の欲するままに使うのは愚かだと思いますか。お金とは、何ですか。
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仕事の能力が上がり、ある程度力がついてくると、組織の中で力学が働く。権力である。力は発揮するものでなく、牽制されるべきものになる。組織の中で、削がれたり、抑えこまれたりするものになる。もし目をつけられ警戒されていれば、その能力は本物の評価を受けている。首になっても、必要な能力が不足している以外にも、組織として排除された結果のこともある。組織の力学は、能力向上の個人的努力を上回る運命をもたらす。
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自分の思いを大事にしすぎて、人の思いを尊重しない人に対して風当たりが強い風潮。自分の思いってそんなに大事なものなのか。人類史何百億人分の一である自分の。
日本は謎に包まれた国だ。日本人としてもそう思う。言葉にできないことが多いのに、言葉の数も量も多すぎる。
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ニュースを、世の中の無理が来ている箇所、世の歪みの現れと読むと、それはほんの一部、氷山の一角にすぎない、と自戒できる。
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考えればわかることを考えずにおくと、ひいては自分を騙すことになる。何が考えるべきことか、本を読んで初めて気づくことは多い。本を読んで知識を得ていれば、何でもできるし何でも続けられる。ヒントを多く持てるから。
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便利で快適で清潔なものだけ求めては、精神が怠慢に陥り腐ってしまう。家具、椅子や机が、人の精神を弛ませるものかもしれない。人間工学、人間中心設計の罪。本当に社会を人間中心主義に再構築すべきか悩ましい。
精神性が高まるデザインを求め続けたい。街を歩く時もそんな視点でモノを批判的に見て歩きたい。
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たとえ真理に触れたために気分が落ちても、それは善いことだ。真理はその周りのことを欺いたりはしない。
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多面的とは、人も物事も一面的でないと理解できた人が使う語だ。一面で判断しない人が使う語だ。意外な一面が理解に影響することもある。形の全体を変えるからだ。コピー用紙であるよりも立体作品の方が意義深い。葉を見るよりも木々の枝ぶりのほうが見応えがある。
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正しい教育なんてない、というところが楽しい。悪いことを教わっても、それが意外と役に立ったり長い楽しみに変わったりする。人の受けた教育を見聞きすると、しばしば自分のそれととても違う。育ってきた環境が違うし、生まれもったものも違う。違うことを知るのが楽しい。
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存在を最小化できる代わりに、居場所がなくなる。
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自分の人生を引き受けるに足る自分は与えられている。どんなに小さな自分であろうと。
自分であろうとするのではない。自分であるのが自分なのだ。
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個人主義や相対主義は、この多様性の時代にはそぐわないものだが、その本人がその考え方で生きようとしているのなら、その生き方考え方を認めなければならない。それが多様主義である。
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やりたいと思ったときに始めれば、満足した時に終えられる。
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経験時間を割かなくて済ませるために本を読む。全てのことを思考して乗り越えるほど人生は長くもないから。
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夢を持ち過ぎたら、限界を知らなくてはならない。
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私は自分が大した人物ではないことをよく知っている。
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知とは、未知を求め、無知を知ることだ。知識は、既知と未知を区別するために役立つ。
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問うてはならない問いはない。むしろ、答えの得られない問いを持てれば、いつだって好奇心を駆動できるのだから、人間の成長成熟が進んでいく。答えられない問いは財産だ。
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何でも簡単に手に入る。これは現代の特徴である。これからもそうだろう。これによって有象無象の感情が失われ、現代の平板で脆い精神形成に寄与するのだ。
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うまくいくための方法ばかりでうんざりする。そんな本は読みたくない。善く生きる本なら読みたい。心の世話ができるような本だ。
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何かになるより、何かであるほうに価値を置く。何かで居続けるほうに。
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早いうちに悩んでおいたことの利益は計り知れない。どんなことも常識でなく、とらわれずにいられる。免れている、これこそ自由だ。若いうちに悩んで勝ち取った精神の価値だ。
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憂鬱で死ぬことしか考えられなかった朝を救ったのは、単純な仕事だった。今はすっかり調子を取り戻した。仕事がありがたい。なんだかんだ単調な仕事は生きる意味を与えてくれる。それでいいのだと肯定してくれる。大仰な理論を知らなくても、生きていて喜ぶことができる。
3連休、私が毎日10時間くらい書斎の椅子で頭を抱えて過ごしていたことを誰も知るまい。
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このたった数年間の情報環境の進歩は理想的なものだ。反面、失われたものが大きすぎる。本当にこのような生活を求めたのか。このたった数年間で変化したのだから、今後数年間でこの情報環境はさらに進化する。そこで失われるのは意外なものだろう。変化を楽しむことが生きる上で大事になってしまったのが、良くも悪くもこの時代だ。
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無人島に1人でいたら、何を持っていくか、というよくある問い。私ならナイフだ。1人で生存している意味を問い、無意味だとわかった時に自刃できるように。
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私の思考は、誰かの役には立たない。むしろ害悪になる。それはわかりきったことだ。もし役立つ自信があるなら本を売っているだろう。私のこのどうしようもない思考は、私に役立つ。今の私、未来の私。それだけのため。その程度のことに時間と意志力を消費しているのだから、贅沢なものだ。
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朝、仕事に行きたくないと思っても、帰りにきょうはよくやったと思ううえ、眠るまでの時間を存分に楽しめるのだから、比較にならない。
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お金持ちとは、買わずに増やした人にすぎない。
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立場上言えなくなることの代償が、言論人の報酬である。自由にものを著せることの代価が、一般人の損失である。
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文学は、結末がわからないままでいることに耐えられるようになるまで、一定の水準に達したとは言えない。人生の結末がわからないのと同じ感覚になるまで。
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1日でインプットできる知識の量には上限がある。どんな人でも。ゆっくり読み、ゆっくり考え、ゆっくり話せばそれでいい。
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最適化とは、それ以外の意味が減ることだ。生活や仕事を最適化して、どこが豊かになるのか。
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皮相な認識を改めていくことは、自分の認識を皮相だと認めるよりもたやすい。
* * *
西洋の学問を、人類の合理化と堕落の歴史と読む視点。
イエスキリストを頂点とする、現代にも未来にも及ぶ堕落。
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人格のない中高年労働者を慰め称揚する論調。
真に生きる人はいつの時代も少ないのだろう。
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YouTube的平和は、現実ではなくむしろその裏の世界だ。毎日を真剣に、慎重に、働いている大勢の市民生活はそこにはない。
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今日は向上した、と思えなければ、その日は退歩だ。
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才能を活かすには、技術よりもまず本人が幸福であることが重要である。活用された才能の受け手は、常に人間なのだから。
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基本的人権は、あくまで基本的である。もし人権なるものが本当に存在するなら、その認められる度合いは様々で、平等でないのが現実だ。
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認識が断片的なせいで、矛盾しているように見える物事がある。その時は大抵、知識を得ることで、どちらかに均せる。
それが理解である。
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人が自分と異なることを観念せよ。つまり、自分を通して想像するのではなく、その人を見て考える必要があるということ。自分を基準にはできない。私も人と違いすぎる。
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ちゃんと知ってると、確実に反対できる。誰も傷つけず、迷惑もかけず、自分の中で断固避けられる。
人の知恵はこんな姿をしている。
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人生が長くなったところで、それに見合う代替となる時間の使い方が、なければならない。本当に面白い人生なら続けるべきだ。いかなる手段も発明し、力を最大化する欲も顧みず、生き続けたらいい。何かのために生きたい人生を諦めるなら、それは諦めた人生になる。もう決して生きたいようには生きられなくなるだろう。
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知りたいことは大概知ってしまった。知りたいという強い興味はもうなくなって、知的活動も消化試合になってきた。情熱も、あるかわからないくらい消えそうになっている。知識なんて追い求めなければよかった、と死の間際に思うのかもしれない。
今こそ作品に向き合う時だ。
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自分の思考が備えうるのとは異なる深さを、自分でも持つように努めるのは無理がある。人には人の視点があるが、私には私ひとりの視点があれば充分なことが多い。
自分とは異なる視点があることを覚えておけば、独断に陥るのを防げる。けれども、自分の視点を育む努力を放棄すれば、視点を語り合い互いを尊重するための土台の何もかもを失う。
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精神は単純である方が幸福らしい。そこに少しの困難や問題が混じるくらいが心地よいらしい。
精神は複数の課題を持つと複雑で処理できないと認識する。それほど単純な機能しかない。なのに困難な問題を解決できるのは精神のみなのだ。
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自分の判断や理解をそう簡単に信じることができない。それは私が平凡だからかも知れない。
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義務教育を完璧に修めた人になりたかったので、30代に差しっかかってもわたしはなろうとした。
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言論の自由で皆が幸せになったと思いますか。信教の自由で皆が寛大になったと思いますか。表現の自由で皆が平和になったと思いますか。
言葉は食べ物だ、目には見えないし耳にも聞こえないし手で触れない、匂いも味もないけど。だから、思想で闘うのでなく、気の合う仲間で余生を過ごすことの大切さを感じる。
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「私はこれから考え続ける人になります。そうしなければ整理がつかない状況になりました。これは神さまにそうしなさいと言われているのだと思います」
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私は女が上だと思って生きてきた。今もそうだしそれからもそうする。男女平等だと男が持ち上げられている感じが気持ち悪い。持ち上げられるのが嫌なのだ。褒められるのも嫌い。女が上だと思うことは私の処世術であり、私とはそれだけの人間だ。
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神が人を介して訂正するなら理解できる。神なしで人を訂正できると思うのは思い上がりである。精神の鍛錬とは、人を訂正しようと思うことではなく、神に訂正されることである。神なしで精神を鍛えても、歪み拗れるだけだ。
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マイナンバーカードの不具合について、そもそも情報は安全に流通させることができないことを踏まえてない人は多い。隠れたものは明るみに出る。情報には秘密を公然と現させる性質がある。情報になった時点で、それは隠し通せない。情報の安全性を担保するのは本質的に難しいからこそ、いつまでも現代の難題であり続けているのだ。
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改正入管法が厳しい面もあるのかもしれないが。入国を難しくしている理由を考えてない人もいる。国がますますやせ細るのを防ぐために入国を厳しくしている面がある。日本は海と天災と日本語に守られている。そうでなければ外国人がどんどん入ってきてどんどん物や技術をとっていってそれを盗まれ、諸行無常の日本には何も残らないだろう。でも、それゆえなんでも新しく生まれる国であり続けるだろう。
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他者と交わるための道具って意外と少ない。これから色々と発明されるべきだ。
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懐は深いが器が小さい人もある。
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好感度とはつまり、広告で時間や空間を邪魔されてもなんとも思われない、ということだろう。広告に出てむしろ売上や契約が増える人を人気があるというのだろう。
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電車の向かいに座る人、街を行き交う人びと、職場の人。誰もこの社会全体を管理してはいない。神さまだけが私たち人間全体を見ている。愛をもって。
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常にイエス度を測るということ。特に行動、哲学、発言において。恵みからできるだけ遠ざからないように。
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私が妻に求めたことはただ一つ。2人で生活がしたい。それが私の結婚願望のすべて。初恋の相手ともただ一緒にいたかった。ほかに何もいらない。それは妻とでも同じ。そういうわけで、私は性交したことが一度もないのである。これからもそうである。
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心に残った悪い感情によって自分を知れるということ。
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現代は神を捨てた。しかし、人間の生み出してきた物語は薄い。とすれば、今は、物語が求められ続ける時代だ。
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生命の源である、卵、ナッツ、しらす、ごま。「源系」 の食材は、大抵栄養価が高くそのバランスも良い。
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人間の真理が聖書にはある。聖書を経ると、真理を探究する姿勢が変化する。
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理解してもらいたいと言語を使うほど、理解してほしいことが膨大になり、思いも膨らみ次々に変遷していくので、まもなく誰にも理解してもらえなくなる。なんでも理解してくれるのは神しかいないと簡単に知れる、とも言えるし、自分の木の葉を森に隠せるとも言える。
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全てを知れると思っていた時代こそ異常だった。今や科学的主題については満足のいくまで知れる時代だが、世界に生きる同時代の一人一人については、むしろほとんど知れなくなった。彼らこそ私たちが最も知るべき存在だというのに。
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情報空間の一隅にいるということ。どんなに時間をかけて情報を集め、知識を学んでも、私のいる情報空間は一隅に過ぎない。全体像を見る余裕を失わなければ、一隅にいることを恥じる必要は今やないのではあるが。
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あまり深く嫌われたくはないが、そもそも私は人に好かれたくない。楽に生きられる理由でもあり、少数派の一面でもある。
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他人は変えられないのに社会を変えようだなんて、どんだけの論理転覆だろうか。静かに生きたい。
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教わった先生方には悪いけど、私は学校を、不幸を経験する施設だと思っている。それで今まで、必要な勉強を、私は独学してきた。独学したこと以外には何も身につかなかった。そう今も思っている。
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人生はきれいに整理できない。過去は捨てても変わらず持っていなくてはならないから。部屋や持ち物が整理できる方が奇跡的だ。それに、忘れられる能力も宝物のように大切にしたい。
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評価しないで理解してほしい、とは、結果を出す前から尊重してほしい、という意味になる。成果なんて尊重関係が構築できてから、つまり二の次なのだ。そんな時代で良いのか。
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基本を応用して利益を得られるのは、基本を学んだ人ではなく、基本を発明した人のみである。
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少子高齢化が進んだこの国の将来の街を歩いてみたい。今よりも家で混んでいないだろうし、私と同年代の人が多いだろう。総じて、今より空いていると思う。この国の都市は混みすぎている。この混雑問題は、少子高齢化で解決に向かう問題のひとつだ。
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アメリカを真似しても日本人は幸せにはなれない。むしろアメリカを反面教師にして、富を幸せに変換する効率的な機関を発明しなくては。もしアメリカによる日本支配が終われば、日本は幸せになれるのだろうか。日本らしさを回復し、伝統と現代文化が融け合った国になっていけたら、世界でも見所のある国になれるだろうか。
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弱い者を切り捨ててはならないと主張するなら、今後も税率を上げることに賛成しなければならない。貧しくなることと弱い者を大切にすることは等しい。
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政治とは配分の調整だ。それも、全ての要求を必ず満たせない配分の判断だ。弱い者が優遇されないのも、強い者から多くの税を取るのも、弱い者が財政的に貢献する力が弱いからだ。
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物であれお金であれ、時間であれ命であれ、私たちは失える権利にお金を払っている。
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仕事を失っていることでも、人は失う欲動を永続して満たすことができる。
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持つとは失えるということ。得られないとは失うこともできないということ。
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無意味と言って存在から意味さえ見出さないのも、刺激を受け取らないという意味でストレスを回避する方法だとは思う。でも、無意味な存在に意味が与えられる時、慣れて将来に役立つかも知れない。
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意味を与えてくれる人は大切にされる。
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不均衡と平和の関係について考えた。バランスが取れると悪が出てくる。それを抑えることが平和維持なのだろうと。
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昭和があまりにも特殊な時代だった説。経済学的に。
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正解を求めたい気持ちは誰にもある。正解は実践するのが容易だから。でも、正解はいくつも存在する。人体も経済も多面的に捉えられるし、三平方の定理の証明方法は何十通りも知られている。正解を実践して解決すると、次の問題が見えてきて、私の人生は問題ばかりだと嘆息してしまう。しかし、正解を求めることに徐々に慣れてくると、こだわりの選択とともにこだわらない寛大さが身についてくる。人生を楽しめると人間がおおらかになる、とはこういうことだろう。
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正解がない問題には、別解がある。大域的に正解になる別解もあれば、局所的な正解にとどまる別解もある。正解であり続ける正解は真理とされるが、めったに持続するものでない。
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自分が健康でいるだけで、どれだけの人が助かるか。どれだけの人と出会えるか。どれだけの人を励ませることか。人のために健康でいられるようにする。自分のためだけでなく。
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超高齢社会、すなわち晩成した大器たちによる社会。
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思考も計算も経験だ。合理的最適化も人間性のうち。失われた感覚も新しい感性も時代の産物。最適化して生きるだけなら機械にもできる生き方になる。生み出すから人間でいられる。なんでもネタになるエンジンを積んでいるなら、機械的正解に収まらずに生きていける。
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巨大な違和感、芸術の源泉。
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芸術作品の生産習慣は、あらゆるストレスを素材とできるうえ、制作時間により退屈を免れ、節約になる。苦労して獲得する価値がある習慣と思う。
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楽しいのは、結果か過程か。
内容と、その発展形を思い描くことだ。
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神は世を光で満たすために人に異なる人格を与えた。異なる人生を歩むことでその総和が広くなるようにした。
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知識を得る楽しみは、他のどの楽しみよりエコである。知識を生む楽しみは、他のどの楽しみより節約になる。しかし、これらも信仰を脅かすほど沼ってはならない。それはいずれ悩ませる。知識を追い求めるのが虚しいと思う時がいつか来る。近いうち必ず来る。その時は、知識より人生を生きることが重要だと気づく時だ。
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いくらどんな考えも受け入れるのが大切で、多様性を尊重しようとも、全ての意見を取り入れることはできないし、しなくて良いだろう。あなたがミュートした意見が、あなたをつくるのだから。
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1日のタスク数を減らしてスケジュールに余裕を持たせる。やることを減らし、得る情報も減らす。そうすればひとつをより楽しめる。多くを消費してもひとつを消費しても、快楽の量は変わらない。このことから、脳が眠る前に持てる幸せには上限があると思う。
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物を多く持っているのが幸せだという見方は、私より2回り以上年上の世代のもので、それより若い世代には引き継がれないだろう。物が少ない方が幸せに近づけるという見方は、私たちの世代の見方の主流だ。その間の世代はこの板挟みでしばらくの間、迷い続けるだろう。得る情報を減らすなど、やることを減らすのが、休む上で大事だ。当たり前か。
年始に実家に帰ったら、部屋から物が減ってすっきりしていた。色も白が中心で明るかった。終い方をちゃんと考えて実践していて、自分の親として誇らしかった。
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買わなくても豊かなら買わずに済む。給与が増えない今の時代がかわいそうと言う人は、なぜそう思うのだろう、給与が増えないことの何がかわいそうなのだろう。物が多すぎるからこの国は不幸であり続けたのではないのか。
経済規模を小さく回したいという欲求がある。収入をできるだけ小さくし、消費をできるだけせず、労働もできるだけしない。カウンターカルチャーを標榜したいわけではないが、私の影響力を小さく収めたいという欲求だ。極端に小さくしたいのではなく、平均よりやや下くらいの規模で収めようとしている。
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収入内消費すなわち黒字であり続けるだけで、いつまでも生活できる。
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人間は万物の尺度である。人間は万人の教材である。
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車に乗って行きたいのではなく、歩いて行きたい。行きたいのではなく、歩きたいのだ。
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価格は感情や幸福と結びつかない。買ったことで感じる喜びは続いても3日間だ。価格は物の投資価値である。どんな価値かといえば、他の物を買わずに済むことだったり、大事にすれば長く使えて買い換えずに済むことだったり、ブランドなどの社会的意味による対価だったりする。価格は喜びとは関係ない。様々な計算によって金額を回収できないと判断されれば、それにお金を払う価値はない。
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母の家事を手伝った学生時代や、信仰の大先輩の生活に付き添った時間や、ひとまわり以上年上の友人と共にした時間。自分が歳を重ねてからの暮らし方の参考にできたことを思うと恵まれていたと感じる。
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個性的独創的であることは希少性の意味で資本主義の望ましい性質なので追求させられているだけで、万一、資本主義が終わったら個性も独創もすぐにでもやめたい。
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有名になろうとして書かれた本は読みたくない。人生の副業として気儘に書かれた本を読みたい。
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お金を多く持とうとする人からできるだけ離れるようにしたい。お金持ちの人のアドバイスも話半分に聞くようにしたい。私が求める知人とは、セネカの言うような、欲が少ない人物、心が穢れていない人物だ。
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お金を多く持つことは大変で、自分にはとても向いていないことがよくわかった。そもそもお金を多く持とうとする理由が私にはない。給与をいただいて安定した小市民として暮らす道を選びたい。健康に長生きすることこそ、お金をたくさん持つより大事だ。
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上昇志向が強い人って、周りを疲れさせることで抜き出て優位に出世していくんだと思うと、昇進に全く興味を失う。これもその人の策略の一部か。
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あと30年も働けて趣味を楽しめるのは私には希望に感じる。何ができるか楽しみだ。
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醜さを知るから美しさが際立つのかもしれない。
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傲慢にならないために学問をしない、という選択もありなんだよな。ただ、私は、この時代に生まれ、育った環境も含め、この街で暮らしていることをすごく幸せに思っている。私が老いた後、のちの世代の人たちも、暮らしを幸せだと思うような時代を作らねばならないと感じる。
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現代人だからって現代的精神で生きなくたっていい。18世紀的精神で生きたっていい。古代ローマの哲人に学んで生きたっていい。イエスキリストを祈り求めて生きたっていいのだ。
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考えたことで人は神に対峙できるが、その分傲慢になる。できるだけ考えずに理解して覚えて済ませよ、というのも敬虔な知恵だと気付いた。
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感覚が確かなのは、その人の価値観と結びついているからだ。感覚は数学と結びついて初めて普遍性を帯びる。論理なき感性は徹底的に疑っていきたい。
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情報を控えるのは難しい。オフにしていけば満たされるんだと思うが、刺激が強すぎるんだと思う。教育されるべきだったのは、情報リテラシーよりも情報から離れる習慣である。
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知識を証明することは大事だと考えた方がいい時代だ。持っている知識が役立てられることが今後多くなるだろうから。知識の価値や知っていることの価値が下がり続け、誰でも知れる環境が整備される中、人の興味関心は限定的だし学習コストはあまり下がらないので、知識はそう簡単に得られるものではないことはあまり変わらないだろう。ゆえに知識はこれからも誰かの役に立つ。
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「理解する記憶と考える記憶を繰り返しながら、できるだけ分野の異なる学問や趣味を身につけ、その違いの中から考える引き出しを数多く作っている人ほど、独創的な考えを生み出せる」
愚か者は自分の経験だけに学ぶ。小さな自分の経験でしかものが言えない大人にはなりたくない。本質的に大切なのは、経験でなく、信仰だ。
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脳の使い方はひとつではないから、ここに書いたように使うばかりが能でないし、使いようで毒麦も解毒でき、悪い木も良い実をつけられると、わたしは確信している。
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わたしがこのように記してきたのは、金の杯と銀の杯の持ち主とを明らかにするためである。そして、金の杯から銀の杯に葡萄酒を分け注いでやりたい、そう、わたしはずっと覚えて生きていく。