答えってなんでしょうか。答え、で思いつくと思うのは、まずは受け答えでしょう。友達や家族との会話、自由に話せる人もいると思いますし、一方的にも話せない人もいるでしょう。どちらが自由かといえば、後者の人は、自由はまだお預けです。次に思い出すと思うのは、解答でしょう。試験の欄を埋めて点数が付くものです。いやですね、実に。できる人は鼻が高くなってしまいますし、できないといじけてしまいがちです。より解答できるようになりたいと言って、たくさんの解答を覚えた人も多いでしょうし、たくさんの解答を自分で作ったり、たくさんの問題を自分で作ってきた人もいるでしょう。問題を起こしてきた人も後者に入りますが、現実に起こすか頭の中で起こすに留めたかは、人の迷惑になるか役に立つかという点で大きな違いと、社会では見られます。
さて、問題と解答、と聞くと、それが最も純粋に現れている科目が、数学でありましょう。みなさんは数学にどんな感想をお持ちでしょうか。つまらない人と面白い人にぱっきり分かれるのではないでしょうか。後者は問題ないように思います。今回は、前者の中の、本当は面白いと思う人なのに、数学に対し無知か誤解があるために、面白さがまだわかってない人に向けて、書いておこうと思います。
なぜつまらないか。簡単です。問いに対して、答えが一つだと思っていませんか。それは、誤解しやすい理解です。問いに対して答えが一つなのは、正しい解き方を身につけさせるためで、正解が一つだ、と教え込むためではないんです。それは考えすぎです。真実はいつも一つだとしても、正解っていくらでもありますよね。環境に負荷をかけないよう、資源を分配するのが正義だとしても、それを実現する方法など、いくらでもあるでしょう。レジ袋を買わない、傘を隠し持つ、靴を磨いておく、割引の品を買って使う、むやみに捨てない、売れなかったら人に譲る。それが何の品物についてか。そうです、いくらだってあるのです。ある程度、自分で正しい答えを答えられるようになれば、あとは自分で答えなんていくらでも見つけていいんですね。
これは、数学の問題についても、実は同様なんです。問いに対して答えなんていくらでもあるんですね。例えば、リーマン予想に対する証明を、わたしは3通り見出していますが、おそらく10はすでに見出されていますし、今世紀には50は見つかるでしょう。もっと身近に言えば、1+1=1でしょうか。ええ、普通は。しかし、計量カップで汲んだ1Lの湯と、もう一杯汲んだ1Lの湯を合わせて、親に2Lだよ、と主張しても、測ってみたら1.87Lだった、なんてことはよくあるでしょう。台所で、味や茹で加減にうるさい親であれば、厳しく言われるでしょう。
正解に、綻びはあると思います。要するに、それでは正しくないよ、ということはある。塩はお湯であっても溶け残りますから、いくらもは溶けません。こういう条件を見つけた人が、法則の発見者として名前を残してきたのです。誰が湯に塩を混ぜたって、溶け残ることを見出しますから、おおよく見つけたね偉い!と言われるわけです。なので、全く正しい、誰が見たって正しい、それが正しいと言えるために正しい証拠を見つけている証明が、より根本的な証明です。
しかし、それでさえ、最終的な解答でしょうか。否です。完全な解答など、人が導けるものでしょうか。否です。塩は、水温を変えても、溶ける量にあまり変化はありません。温度を変えても、大して変わらないんですね。しかし、圧力を変えてみたらどうでしょう。台所より、地殻の中の方が溶けたりします。あるいは、重力を弱くしたらどうでしょう。宇宙空間の方が溶けなかったりします。ある範囲で正しい解答なら、今までも多く見出されてきました。しかし、今見出されている解答のうち、範囲や環境を変えると、つまり事情や状況が変わると、それでも無論であり続ける答えは、ない、でしょう。今異論の見つかっていない解答にも、異論が見つかるのは時間の問題ではないでしょうか。
もちろん、解答の真理性は確かでしょうから、それを真っ向から否定する論は、真理性を含んでいますが、元の解答の真理性もまた確かです。ですから、それらを包むより大きな解答の存在が予想されるわけです。この宇宙の方程式が見つかったとて、隣の宇宙も同じ式が当てはまるでしょうか?全ての宇宙の式になるには、まだ変数や式変換や、新しい数学の視点が加えられて然るべきではないでしょうか?素粒子の式が見つかったとて、それより小さな粒子がない、と誰が言えるでしょうか。加速器で実際に見つけようとするのも限界がありそうですから、計算実験するなら、より正確な計算機を作らなくてはなりませんし、それを地上で動かすのが困難なら、別の重力場を持つ空間なり惑星で計算しなくてはならないでしょう。
このように、完成した、と思っていたら、若い人にとっとと先を越されてしまいます。なんでもそうですが、神さまのように完全なものを、人間が完成できるはずもないのです。人間はいつも、不完全な解答しか出せないよう、神さまが人を作ったのです。それがなぜかは、人生にうまくいく時期と困難な時期とを経験させるためだ、と書いてありますが、これがなぜなのかわかると、神の愛を知る、つまり完全な解答に満足するのです。ご存知のように、その解答は神の解答で、必ず誰にとっても、人に出せる答えではないのです。
(2025/1/2)