実を結ぶ発想

 わたしは10代のころ、デッサンや水彩を学んでいました。ものの形を捉え、それを紙の上の色や質感を通して、適切な大きさや構図や配置でもって、そのものの性質を引き出す訓練でした。鉛筆を使ってまっすぐな線を引けるよう、朝から晩まで1本のステッドラーが尽きるまで画用紙に相対したという話も聞きまして、わたしは明らかに修業が足りないな、と思っていたものでした。

 次にわたしは大学でプログラミングを学びました。考えうるものはなんでも作れるんだ、人間ってすごいなあ、と知れて楽しかったのですが、作れないもの不可能なものに興味があったわたしは、なかなかプログラムでなにか作ろうとも思えず、プログラミング言語論やアルゴリズムの本をよく読み、コピー用紙にペンで図形を書いて計算し、1箱が尽きたころに学生生活を終えました。

 一方、大学院で有機合成化学を専攻するのですが、これが非常に面白かったのは、考えうるもののうち、現実に合成できるものと、決してとはいえないまでも合成が非常に困難を極めるものとが、あったことでした。例えば、(他意はないので赦してください)ある単純で美しさを持つ小さな塩基のアイデアがありました。当時合成可能であることが知られていたどんな人工塩基よりも、シンプルで美しく、かつ小さく有用であろうと思われたアイデアです。紙に書いてもまるで数学の定理のように美しく、はじめからそこに存在していたとしても不自然さのない構造をしていました。しかし、この塩基は、どんな実験の手練でも、どんな反応を文献で漁っても、さまざまに試した合成可能性をすべて拒み、合成できなかったのです。

 これは大変興味を掻き立てられた事実でした。どうして考えられるものの中にも、合成できるものとできないものがあるのか?これはわたしに認識と存在の問題を考えるきっかけを与えてくれた疑問でした。

 当時のわたしは、人間に都合が良いものは、自然にあるものをいくら取り合わせても、作ることが困難を極め、仮にも作ることができても、使われていくうちに、特に自然に対して大きな問題を孕んでいってしまい、結果的に大問題を引き起こすことになるだろう。と考えていました。というのも、その塩基が仮に合成できたとしても、使われていくたび、自然にあるすべての遺伝子を攪乱し、生態系を変化させてしまうことは、その発案者自身もよく理解されていたので、何度か議論したものでした。対して、はじめから自然にあったものは、探しているうちは人に烈しい困難を強いますが、いざ見つかってみると、やはりはじめからあっただけあって、周りのいろいろな事実が真実として浮かび上がり、その後のさまざまな発想の種となり、それらの結果を通して、結局は多くの人の当たり前となるのだろうと。わたしが最初に読んだ文庫の著者ゲーテは、詩は真実である、と言っています。だからわたしは数学を研究するうえで、芸術、特に詩の技法から入り、平凡平板な日常の日記でも、変わり映えしない愛の言葉でも、ある日見かけた自然や作品や人と言葉の感想でも、次々記していったのです。

 しかし、今は考えを改めました。おそらく、人間にとって有用かどうかは、アイデアの実現可能性にとって、あまり関係ないのではないか、と。ここからは半ば妄想なのですが、神様が見つかるのをゆるしたときに見つかるのでは、と思わされることがあります。発見を待つ人は、ある程度の形や確度でもって、すでに発見してあるのです。ただ、それらがなぜか実を結ばない日々が続きます。おそらく、この時期が本当の困難です。なぜ実を結ばないのか、様々な文献や実験を通して確認し考察していくしかない。そして、ある日、必要性も目的も動機もすべて揃った時、天が啓け、すでに形を露わしていたものが光で輝き照らされ、明らかだったという既瞭感とともに、すらすらと書き下せるのです。わたしにはこうした感覚過程が、正直なところ3度ありました。そして、それらはつながって一連の証明を成しました。はじめに頭に懐胎し己を虚しくした図像が、証明によってその構造を明らかに現し、わたしは虚しくしていた自己すべてを取り戻せたのです。

 このように、数学や科学はもとより、発見が必要な学術もまた、発想の人文学によるところがほとんどなのだ、と、わたしは確信して述べることができます。なので、もし発見をなしたい人に伝える心得があるとすれば、あまり早すぎる先駆者になろうとするよりも、時代の流行をよくつかみ、その掴んだところから古きを温ね、未来を少し見晴るかしたところに、発見の視野が広がっているのです。そして、もう一つ秘術をお伝えするとすれば、その視野の広がりと、自分自身の喪失の度合とは、比例しているだろう、ということです。これは、失った分だけ得られるようにしてくださる神の愛から推し測れるところであります。身も心も、考えも自分の考え方も、財産も地位肩書も名誉の可能性も、生の喜びも思い出も快楽の機会も、すべて失った人のもとに、大きな発見が待ち構えていると思われるのです。

(2024/12/28)